幸いなことに、氷河のミニフィギュアは作られることはなかった。
『常温氷河』なる得体の知れない飲料を販売するグラード・ビバレッジ社がメイン購入層として考えていたのは、可愛い玩具を欲しがる子供たちでも、各種フィギュアのコンプリートに情熱を燃やす一部のオタクでもなく――ごくごく普通の、要するに家庭の主婦層を中心とした女性陣だったのだ。

一般の家庭で最も電力を使う電化製品は冷蔵庫で、その割合は全消費電力量の3割弱とされている。
室温で保存し、そのままおいしく飲むことができるという冷蔵庫不要ドリンクは、毎月の電気代の増減に一喜一憂している家庭の主婦層に強く訴えるもの。
その上、保存場所を選ばないという商品の特性上、割安になる大量購入が可能である。
その点を強力にアピールして、彼女等に『常温氷河』をダース単位、ケース単位で購入させるのが、グラード・ビバレッジ社の目論みだったのだ。

グラード・ビバレッジ社(つまるところ グラード財団総帥)は、まずテレビCMのCMを、グラード・ビバレッジ社公式ウェブサイトやテレビで開始した。
3月某日、国連協賛商品の飲料水のコマーシャルフィルムをテレビで流し始めるという前宣伝を実施したのである。

テレビCF放映前日には公式サイトで先行動画配信を実施、夜更かしをしてネットをしていた娘から、問題のCFに起用されている外タレの話を聞いた推定100万人の家庭の主婦たちは、その日、わくわくしながらテレビの前に陣取った。――らしい。
そして、モケット・ポンスター光過敏性発作事件以来の大事件が、日本中の家庭で勃発することになったのである。

問題のテレビCFを観た主婦が興奮の余り失神し、全国で10数人が救急車で運ばれた――というニュースが その日の夕方のニュース番組で採りあげられ、各局は一斉に番組内で問題のCFを流すということをしてくれたのだ。
グラード・ビバレッジ社は、1円の宣伝費もかけずに、タダで各局のCM枠を手に入れたことになる。

それは、テレビ画面いっぱいに氷河の必殺技が映し出される、わずか15秒間のスポットCMだった。
そして、やけになった氷河の流し目は、ありえないほど強烈だったのである。

獲物を狙う猛禽類もかくやと言わんばかりに攻撃的な睥睨。
きっちり2秒後、氷河の瞼はゆっくりと伏せられ、やがて彼は僅かに俯くように横を向いてしまう。
『今すぐ始めなければ、手遅れになることがある。恋と地球温暖化対策』という、訳のわからないキャッチコピーが流れ、最後にどこぞの氷河(本物の氷河)をバックに商品がフレームイン。
画面下に小さく、『お買い上げの方に抽選でCFメイキングDVDをプレゼント』の文字が入る。

10円割高『常温氷河』には、氷河のミニフィギュアがつけられることはなかったが、代わりにボトルや缶にキャンペーン応募用シールが1枚ついていた。
そのシールを10枚集めて応募すれば、抽選で毎週500名様に氷河のCFメイキングDVDが当たる――という企画を、グラード・ビバレッジ社は打ち出したのである。
DVDはグラード・ピクチャー・エンターティンメント社とグラード・インフォメーション・テクノロジー社技術部門の叡智を結集して開発された強力コピーガードつきで、複製はほぼ不可能という代物だった。

商品は買い置きができるもの。
そして、プレゼント応募にはシールが10枚必要。
氷河の流し目にイカれた家庭の主婦たちが、エサとなる草を求めてサバンナを大移動するヌーの大群のように『常温氷河』大量購入に走ったのは言うまでもない。
ちなみに、DVDプレゼントの抽選に洩れた応募者には、更に抽選で氷河の量産型パウチカードが、毎週1000名様に当たることになっていた。

その結果。
氷河は、実らぬ恋を耐えるための唯一の心の拠りどころだった、瞬との日課の散歩ができなくなってしまったのである。
なにしろ例の公園には、どこから情報を仕入れたのか、氷河の流し目にイカれた女子中高生からナウでヤングな家庭の主婦までが、連日 黒山の人だかりを成して噂の人の登場を待ち伏せているというのだから、氷河は迂闊に外出することもできなかったのだ。

お年寄りが日向ぼっこができなくなってはいないかと心配して、瞬がこっそり一人で公園の様子を窺いにいったのだが、そこにいたのは、数日前までは腰の曲がっていたおばあさんたちが『常温氷河』を片手に女子高生たちと仲良く盛り上がっている姿だったらしい。
『女の敵は女』『人類を大同団結させるには、共通の敵が必要』――古代から人類普遍の真理とされてきたことが実は何の根拠もない たわ言だったことを、氷河は我が身をもって証明することになったのだった。






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