この地球上に生きる人間の半分を意のままにする力を有していながら、なぜ氷河はあそこまで不運なのか――。
同情しているわけではなかったが、星矢はその現実を不思議なことだとは思っていた。
どちらにしても恋に悩む男の顔を長々と見ていても あまり楽しくはないし、腹も膨れない。
そう考えてラウンジを出た星矢は、ふと視線を巡らせた窓の向こうに、氷河を不幸で不運な男にしている張本人が何やら心細げな様子をして佇んでいるのに気付いたのである。

城戸邸の庭では、桜が終わり、そろそろフリージアやシクラメンが色とりどりの花を咲かせ始めていた。
一見したところは、明るく暖かい春の風景。
だが、それらの花々を見詰めている瞬の肩と横顔は随分と沈んでおり、季節が冬に逆戻りしたのではないかと思えるほどに白く単調だった。

星矢はそれを、氷河のせいで迂闊に外出もできなくなった瞬が気落ちしているのだと思った。
本来ならこの庭だけでなく もっと様々な場所で春の兆しを見付け楽しんでいるはずの時季に、瞬はどこぞの馬鹿のせいでそれができなくなってしまったのだ。
花を愛し、鳥とさえずり、風を感じ、月を詠う――とまではいかないが、瞬は自然に親しむのが好きな人間だった。
そこにきて、せっかくの春に この蟄居軟禁生活である。
瞬の気落ちも致し方のないことと、星矢は考えたのである。

「人間ってのは飽きやすくできてるもんだから、こんな騒ぎ、いい加減で収まるって。おまえはまたすぐに氷河と一緒に散歩に行けるようになるさ」
氷河ならともかく、しょんぼりしている瞬を打ち捨てておくわけにはいかない。
星矢は庭に出て、どこから何を見ても落ち込んでいるとしか言いようのない瞬の顔を覗き込みながら、そう言った。

「あ、うん、そうだね。ありがとう……」
瞬は一瞬、自分が何を言われたのかわからない――というような顔をしたのである。
が、すぐにその口許に笑みを浮かべた――浮かべようとしたらしかった。
その弾みで、瞬の瞳から涙が一粒零れ落ちる。

「瞬 !? 」
当然のことながら、星矢は非常に慌てることになってしまったのである。
報われぬ恋に悲嘆している氷河が泣くなら、理解もできる。
氷河の涙など見せられても笑うしかなかったが、それでも理解はできる。
しかし、瞬が泣くのは――それはどう考えてもおかしなことではないか。
瞬は、氷河がみじめで不幸な男になる原因を作った人間。むしろ、氷河の不幸の原因そのものであるというのに。

しかし、瞬には瞬の都合と、瞬なりの苦しみ悲しみというものがあったのである。
瞬がそんなものに囚われる理由はどこにもない――と、瞬の仲間たちが勝手に決めつけていただけで。
「ど……どーしたんだよ!」
「氷河、僕と付き合ってるくせにあんなこと言うなんて、どうしてなの……。氷河は僕のこと、嫌いになっちゃったの。それとも僕に飽きちゃったの……」
一度涙を見られてしまったことで、瞬は腹をくくってしまったらしい。
腹をくくって――瞬はさめざめと泣きながら、その苦しい胸の内を星矢に打ち明けてきた。

「へ?」
打ち明けられて驚いたのは星矢である。
これはいったいどういうことなのだろう。
瞬はいったい何を言っているのか。
瞬の訴えは、氷河の言っていたこととは随分違う。
随分違うどころか、180度 華麗に真逆だった。

「おまえ、いったい いつから氷河と付き合ってたんだよ !? 」
それは、その“お付き合い”の当事者の一人である氷河本人も知らずにいた事実――である(おそらく)。
まして、この恋の第三者である星矢が知るわけもない。
ほとんど怒声に近い声で、星矢は瞬を問い質していた。
自分の涙をみっともないと思ったのか、あるいは自分の涙は星矢を困らせるだけだと考えたのか、瞬は、その右の拳で彼の頬を濡らしているものを拭い、無理に笑おうとした。

「ごめんなさい。ううん、付き合ってたわけじゃないんだ。僕が勘違いして、勝手に一人でそう思い込んでただけ。それだけだったみたい……」
「思い込んでただけ――って、どーすりゃそんなふうに一人で思い込めるんだよ!」
星矢の疑念は当然のものだったろう。
『付き合う』という行為は、一人の人間だけでは成立させることのできない行為なのだ。
瞬も、星矢と同じことを思ったらしい。
彼は、天馬座の聖闘士の前で力なく項垂れた。

「氷河、1年くらい前に、僕に好きだって言ってくれたことがあったんだ。あれはほんとは友だちや仲間としての『好き』だったのに、僕は一人で勝手に特別な『好き』なんだと思い込んでたの。恥ずかしい……勝手にうぬぼれて……。氷河が僕なんかをそういう意味で好きになってくれるはずなんかないのに……」
「1年前の『好き』……」
少しずつ――星矢は、瞬の涙の訳がわかってきた――ような気がしたのである。
表向きは一人よがりの恋に破れたことになる仲間を慰め励ます形で、星矢はとりあえず、すべての事情を瞬から聞き出した。

そうして彼が辿り着くことのできた結論。
それは、瞬はもう1年も前から自分は氷河と“お付き合い”をしているつもりでいた――という、驚愕の事実だった。
毎日の散歩も、瞬は、いわゆるデートというものなのだと思っていたらしい。
瞬は、自分と氷河はとても仲の良い恋人同士なのだと、心から信じきっていたのだ――。






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