「何が若き公爵様ですかっ! だめだめだめっ! 絶対お金目当てに決まってるのに、どんな名門貴族だか何だか知らないけど、要するに破産寸前の貧乏貴族でしょう! 貴族なんて、財産を食いつぶすことしかできない能無しのくせに気位ばっかり高くて、妻の実家からの援助でのうのうと一生遊び暮らすつもりでいるんだ。貴族が、いくら金持ちでも平民出身の妻を尊敬して大切にしてくれるはずない。絶対うまくいくはずないんだからっ!」
シュンは、その縁談には最初から大反対だった。
この縁談を持ってきたシュンの父が、気の立った野良猫のような息子の様子を見て、渋面を作る。

「こんな名誉な話はないんだぞ。エスメラルダの夫となる人物は、英国でその名を知らぬ者のない名門公爵家の当主で、王家の血も入っている。王太子様と王女様方、陛下の弟君、その甥御様と姪御様方の身に不都合があれば、この国の王になることもありえないではない高貴なお方なんだ」
「へえ。で、その公爵様の王位継承順位は何番目なの」
「10番目、かな」
「10番目! 王族が9人亡くなるっていう大椿事でも起きない限り、ただの無能な放蕩好きの貧乏貴族じゃない!」

“高貴なお方”の高貴の程を、シュンは鼻で笑ってみせた。
彼がもっと王位に近いところにいる人物であったなら、シュンはその事実もエスメラルダとの結婚を反対する理由にしていただろう。
シュンはとにかく、エスメラルダをこの家から出したくなかったのだ。

「本人は清潔な青年だぞ。父君である前公爵を早くに亡くし、母君が後見についていたんだが、その母君というのが王室出の世間知らずのお姫様でな。大変善良な方だったんだが、彼女は夫の残した莫大な財産を湯水のように慈善事業につぎ込んでしまったんだ。どうも金は使えばなくなるものだという意識がなかったらしい。その母君が1年前に亡くなって、公爵家の財産を調べてみたら、残っていたのは多額の借金ばかりだったというわけで――」
「馬鹿みたい、貴族って」

吐き出すように、シュンは言った。
シュンとて、恵まれない立場にある人々に救いの手を差し延べる行為を愚かなことと考えているわけではない。
シュンの父も定期的に各種の慈善団体に有形無形の援助を行うことはしていた。
ただし、彼が経営する企業の年間の純利益の1パーセント以内で。

当然である。
際限のない援助は、その援助を受ける側の人間のプライドや自立心を損なう恐れがあるし、援助をする側の人間が真っ当な生活をしていなければ、援助を受ける側の者たちも寝覚めが悪いだろう。
慈善にはマナーというものがある――というのが、シュンの持論だった。
シュンのその考えに同感しているだけに、シュンの父がきまりの悪い顔をする。

「そう言うな。当人はずっと大学の学寮にいて、休暇の時以外 滅多に家に帰ることもできず学業に専念していたんだ。それまで家のことは母君の好きにさせていたらしい」
「家屋敷くらいはあるんでしょう。それを売って、アパートメントにでも住めばいい。今どき珍しくもありませんよ、城館を持たず賃貸住宅に住んでる貴族なんて。それもせずに、金持ちの平民の娘の持参金に頼ろうなんて根性が卑しい」
「ロンドンの郊外に大きな自邸はあるんだが、それがまともに買おうとしたら、我が国が植民地経営にまわしている予算半年分に相当する額が必要ほど立派な城で、買い手がつかんのだ」
「植民地経営予算の半年分――? それは……父さんでも手がでませんね……」

黄金の城に住みながら飢えている人間の姿とは どんなものだろうと考えて、シュンは溜め息を洩らしたのである。
それはシュンの想像を絶するものだった。
父の訓育で養われたシュンの、ごく一般的かつマトモな経済観念と価値観では思い及ばない異様な事態だったのだ、それは。

――シュンの父は、ウェールズの田舎で貧しい小作人の息子として生を受けた。
僅かばかりの小銭を持ってロンドンに出、ドーバーの港の人足の仕事から始め、持ち前の才覚と幸運で財を成した人物だった。
穀物法・航海法が廃止され、産業資本家が求める自由貿易が実現しつつある中、欧州のみならず世界の時勢を冷静に見詰め、堅実な判断力と果敢な冒険心で巨万の財を為した立志伝中の人物。
産業革命・交通革命後の機運に乗り、鉄鋼・養蚕等、重工業軽工業の分野を問わない工場を幾つも所有し、自前の船で海外貿易も行なう、一大企業の頂点に立つ男。
彼の家には物と金があふれており、欠けているものは貴族の身分だけだったのだ。

英国は階級社会である。
工場一つ建てるにしても、貴族であれば許可はすぐに下り、国からの援助も期待できるが、平民がそれをしようとすると、莫大な資金と根回し――要するに有力貴族の口利き――が必要になる。
自由に事業を展開していくのに、貴族の身分はあって損のないものだった。
つまりエスメラルダと若き公爵の縁談は、貴族の身分の欲しいブルジョワジーと、身分はあっても金のない貴族との、明白な政略結婚。

「無能な特権階級が優遇されているこの国で、平民という身分のせいで何度も煮え湯を飲まされてきた父さんの考えていることはわからないでもありませんけど、でも駄目です。エスメラルダ姉さんには好きな人がいるんだから!」
「なに? どこの誰だ」
「イッキ兄さん」
「それは初耳だ――」

ふいに自分の長子の名を出され、シュンの父が僅かにその眉をひそめる。
彼のもう一人の息子は、現在この家にいなかった。
シュンの父は、グラードの跡目を無能な人間に継がせるわけにはいかないと言って、修行と称し、些少の金だけを与え、彼の長男を家から放り出してしまったのだ。
渡した資金を せめて1000倍に増やしてからでないと家には入れないと言い渡して。
シュンの兄が家を出たのは、彼が18の時。
3年前のことである。

「親族同士で結婚しても、我が家は得るものがないではないか」
「そう言われるのがわかっていたから内緒にしていたんです。でも、エスメラルダ姉さんは兄さんが好きだし、兄さんは父さんより大金持ちになって帰ってくるに決まってるんだから、父さんが文句を言ったって無駄です」
兄の才覚と幸運を、弟は信じきっている。
自分の息子を無能と思いたくないのはシュンの父とて同じだったのだが、彼はあえてシュンの確信を揺るがすような言葉を吐いた。

「イッキがどこぞで事業を起こしたという話は、風の噂にも聞かないがな。私は、グラードの跡継ぎとしては、まだおまえの方が見込みがあると考え始めているところだ。あれは、責任や義務に縛られるのを厭うきらいがある」
「……」
それが、自分の長子に期待しているからこその父の発言だということは、シュンにもわかっていた。
ただ、シュンの父と兄はタイプが似ているせいで反発し合うことが多く、あまり仲のよい親子とは言えないのも事実だったのだ。
それが兄と義姉の幸福を願うシュンの心に不安の影を落とす。

「なら、僕も兄さんみたいにこの家を追い出したらどうです」
「おまえが18になってもイッキが戻ってこなかったら、それも考える。だが、今は駄目だ。今のおまえを修行になど出したら、その顔だ。どこぞの男に目をつけられて、泣きを見るのが落ちだからな」
「僕を見くびるのは――」

仮定文だけで成り立つ会話を それ以上続けたくなかったらしく、シュンの父はシュンの反駁を遮った。
「ともかく、明日の昼食会に公爵殿を招いてある。午後のお茶の時間に顔を出すように、エスメラルダには言っておけ。まあ、今回は顔見せ程度だが、エスメラルダを見て その気にならない男などおるまい。なにしろエスメラルダは、おまえに似て 素晴らしい美人だから」
それが息子をからかった言葉だったのか、あるいは皮肉だったのか、シュンには判断がつかなかった。
いずれにしても愉快な発言ではなかったので、唇をきつく引き結ぶ。

そんなシュンをからかうように、シュンの父は軽快な笑い声を室内に響かせた。
「それに、公爵殿は男の私が見ても惚れ惚れするような美男子だ。エスメラルダも気に入るかもしれないぞ」
「姉さんは、そんな尻軽じゃありません!」
父はどうあっても、彼の企みを実行に移すつもりでいるらしい。
これ以上父と話していても無駄と悟ったシュンは、せめてもの抵抗と言わんばかりに乱暴な足取りで、父の書斎をあとにしたのだった。






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