犬か熊かと問われれば、こんなところに熊がいるはずはないのだから、やはりそれは犬なのだろう。 それにしても大きな犬だった。 ヒグマやホッキョクグマとまではいかないが、ツキノワグマほどの大きさはある。 太りすぎて巨大なわけではなさそうなのが唯一の救いだと、正直氷河は思った。 桜の時季は終わったが、まだまだ季節は春。 氷河は、突然、 「アイクスクリームが食いたい! 3丁目の駄菓子屋で売ってるメロンカップのアイスクリームが食いたいー!」 と騒ぎ出した星矢のために、瞬と共に買い物に出たところだった。 ちなみに、なぜ星矢のアイスクリームを買いに出るのが星矢自身ではなく氷河と瞬なのかというと、星矢ご用達の駄菓子屋では保冷剤の類が用意されていないから。 保冷剤の代わりができる氷雪の聖闘士が、星矢と一緒に外出などしたくない(=瞬と一緒なら、自分が食するわけでもないアイスクリーム購入のために外出してもいい)と言い張ったからだった。 城戸邸から3丁目の駄菓子屋まで徒歩20分。 大通りに出るまでは閑静な住宅街が続く。 その住宅街の、とある家の門の前に、その巨大な犬はいた。 突然瞬が走り出したので何事かと思いつつ、氷河が瞬の駆け出した方向に視線を投げると、そこに巨大な淡褐色の犬の姿があった――のである。 瞬はその巨大な犬の側まで行くと、 「わあ、大きい! すごく可愛い!」 と、すっかり興奮した様子で大きな歓声をあげた。 体長・体重共、人間である瞬と大して変わらないような犬を『可愛い』と評する瞬のセンスに、氷河が少々奇異の念を抱いたのは事実である。 にも関わらず、彼が瞬に『そのセンスはおかしい』と面と向かって指摘しなかったのは――できなかったのは――つまり、要するに、氷河が瞬に対して並々ならぬ恋情を抱いているからだった。 彼は、そんなことを いちいち指摘して、瞬の気分を害する危険を冒したくなかったのである。 「撫でていいですか?」 大きな犬の傍らには、当然のことながら飼い主がいた。 見た目の年齢と、平日の午後2時という時刻を考えると、午後の講義のない大学生――というところだったろう。 巨大な犬を目の当たりにした瞬が異様に はしゃいでいるのを認めて、彼は笑いながら瞬に頷いた。 「そうしてください。喜びます」 「ありがとうございます!」 飼い主の許可を得た瞬が、嬉しそうに犬の背を撫で、頭を撫でる。 瞬が稀に見る“美少女”の外見をしていることがわかるのか、瞬に撫でられた巨大な犬は、モップのような尻尾を派手に振って、その喜びのほどを周囲に誇示しまくった。 だが、その場で この邂逅を最も喜んでいるのは、やはりどう見ても瞬だった。 瞬の巨大犬への接近振りは今日初めて出会った他 瞬は、今にも犬の首に抱きついていかんばかりの勢いで、その犬を愛でまくっていた。 「男の子ですよね。お利口そうな目! ああ、ほんとに可愛い。どうしてこんなに可愛いの!」 人間というものは、往々にして自分と同じものを好きな人間に好意を抱くようにできている。 自分と同じ趣味・好み・感性を持っている者に対して、人は親近感を抱くのである。 “好きなもの”が同じ人間(異性)である場合は話が別だが、それが犬好き・猫好きとなると、その傾向は特に顕著なようである。 その上、瞬の外見は、犬にもわかるほどの美少女で、その美少女が今にもとろけそうな笑顔で、彼の愛犬を可愛がってくれているのである。 巨大な犬の飼い主が、瞬に向かって、 「大人しい子ですから、庭でならリードを外せますよ」 と言ってきたのは、さほど奇妙なことでも不自然なことでもなかっただろう。 「え?」 弾かれたように顔をあげて、瞬が奇妙でも不自然でもない提案を示してきた人を見上げる。 彼は、ちょうど散歩から帰ってきて自邸に入るところだったらしい。 瞬と巨大な犬とその飼い主は、これだけの大型犬を飼えるのだから当然のことではあるが、城戸邸ほどではないにしろ、やはり広い庭のある邸宅の門前にいた。 「いいんですか!」 「時間があるんでしたら」 「あります、あります!」 1分後に発車するバスに乗らなければならなかったとしても、瞬はそう答えていたに違いない。 青銅でできた凝った造りの門を、家の住人が瞬のために開くと、瞬はためらう様子もなく いそいそと その門の内に入っていった。 すっかり瞬に忘れられた 庭に入った巨大な犬の飼い主が犬のリードを外すと、瞬はその瞬間を待ちかねていたように巨大な犬の首に抱きついていった。 「名前! この子の名前、何ていうんですか!」 遅ればせながら初対面の犬の名を尋ねた瞬に、 「プロキオンですよ」 と、巨大犬の飼い主が答えてくる。 「プロキオン?」 巨大犬の名を聞いて僅かに顔を歪めたのは、ほとんど瞬と巨大犬の抱擁劇の傍観者と化していた氷河だった。 『プロキオン』といえば、こいぬ座を形成している星の名である。 おおいぬ座の『シリウス』ならまだしも、このでかい犬のどこがプロキオンだと、彼は、この犬の名付け親のセンスに疑念を抱いたのである。 氷河の疑念に気付いたらしい。プロキオンの飼い主は、さほど犬好きなわけでもないらしい瞬の連れに苦笑を投げた。 「この子にも小さい頃はあったんですよ」 それはそうである。 それはそうであるが、この犬がこれほど大きく犬種だということを知っていたら、普通の人間はそんな名をつけることはしないだろう――と、氷河は思った。 |