人目を気にしなくていい閉鎖された空間にいるせいか、瞬にはもはや遠慮がなくなっていた。
芝生の上で、自分の身体の大きさも顧みずじゃれついてくる犬の全身を、瞬は感極まったように撫でまわしている。
その様子を見て、氷河は非常に不愉快な気分になったのである。
とりあえず瞬の恋人としての地位を公認されている彼でさえ、瞬にここまでのサービスをしてもらったことはなかったのだ。

彼がつい、瞬の寵愛をほしいままにしている犬を睨みつけたとしても、それは致し方のないこと。
『人間としてのプライドはないのか』と彼を責めるのは気の毒というものだろう。
まさか、その睥睨が気に触ったわけでも、親愛の情を示すものと誤解したわけでもないだろうが、それまで瞬に全身を撫で回されて嬉しそうにしていたプロキオンが、突然氷河の方に向き直る。
彼はふいに瞬とのじゃれ合いを中断し、のしのしと氷河の足元までやってきて、巨体に似合わぬ つぶらな瞳で氷河を見上げた。
そして、何かを期待しているような熱っぽい眼差しを氷河に向けてきたのである。

「えーい、寄るなっ! 俺は瞬以外の生き物を愛でる趣味はないっ!」
犬好きでも何でもない人間に今にも飛びついてきそうな巨大な犬の瞳がかもしだす空気に、あまり好ましくないものを感じ、氷河はじりじりと後ずさりをした。
プロキオンは、そんな氷河をのしのしと追いつめていく。

敵に背中を見せるのは、それが人間であっても聖闘士にとっては屈辱的なことである。
まして相手が犬とあっては、氷河は絶対に“彼”に背を向けて逃げ出すわけにはいかなかった。
氷河はどこまでも あとずさりを続け、プロキオンはどこまでも氷河を追いかけていく。

「プロキオン、こっちに来て」
幾度もプロキオンに呼びかけていた瞬は、互いに向かい合った氷河とプロキオンの移動距離が30メートルを越えた時点で、プロキオンを自分の許に呼び寄せることを断念した。
「氷河の方が気に入ったみたい」
プロキオンの飼い主の方を振り返り、少し残念そうに――否、大いに残念そうに――瞬が小さな笑みを浮かべる。

プロキオンの飼い主は、落胆の瞬に苦笑混じりに首を横に振った。
「いや、あれは――。プロキオンは君より彼が気に入ったんじゃなく――あの子は、一度目が合った人間をどこまでも追い続けていく犬なんです。その人が自分の頭を撫でてくれるまで」
「え?」

それはなかなか珍妙な癖である。
愛すべき癖ともいえたが、なぜプロキオンがそんな癖を持つに至ったのか、その経緯を瞬は訝ることになった。
プロキオンの飼い主の笑顔が、少し つらそうなものに変わる。
「プロキオンはもともとは弟の犬だったんです。父方の祖父が田舎で飼っていた犬が子供を産んだのを、弟が貰い受けてきた。弟は本当にプロキオンを可愛がっていた。必ずプロキオンの頭を撫でてから学校に行くのを日課にしていた」

彼の説明がすべて過去形で語られることが気になって、瞬は口を挟むことができずにいた。
何か――悪い予感がして。
「ちょうど10年前の今頃、雨のひどい日に――あの日はプロキオンの具合いがちょっと悪かったのかな。弟も雨だからいつもより早めに学校に行こうとしていて、プロキオンの頭を撫でずに家を出たんです。その日、弟は交通事故で亡くなった」

「あ……」
それは“悪い予感”というより、彼の語り口から当然察せられる事柄だったのだが、それでも瞬は大きな衝撃を受けたのである。
悲しみやつらさなど知らぬげに見える犬の悲しい過去。
あんなに可愛らしい犬が愛する人との別離を経験しているのだという事実に。

「突然弟が消えてしまった訳がわからなかったらしくて――わかるはずもないが――プロキオンは弟のいない毎日に戸惑っていた。ずっと落ち着かない様子で、客がくるたび、弟が帰ってきたのかと期待して玄関に飛んでいって、そのたびにがっかりしていた。そのうちに、プロキオンは、弟が家に帰っこないのは、二人の毎日の儀式を怠ったからなのだと考えるようになったらしく、頭を撫でてもらってからでないと、人と別れられなくなってしまったんですよ」

「……」
10年前、彼の弟――というと、おそらくプロキオンの元の主人は、その時まだ小学生だったに違いない。
「まあ、おかげで、我が家には不審人物をどこまでも追いかけてくる訓練された番犬がいるという噂が立って、泥棒よけになっているんですが」
プロキオンが10年という長い時間が過ぎても忘れられない大切な主人を失ったように、プロキオンの今の飼い主もまた、大切な弟を失ったのだ。
そんなことを 笑って言う不幸な兄に、瞬はいたたまれなさを覚えるほど自身の迂闊を後悔した。
彼にそんな悲しい思い出――おそらく――を語らせるつもりはなかったのである、瞬は。

「す……すみません。つらいことを話させてしまって」
「いや。僕はもう立ち直っているんです。10年も前のことだから。ただ、プロキオンだけはその癖が抜けなくて……。プロキオンは、もしかしたら、あの儀式を続けていれば、いつか弟が帰ってきてくれると、今でも信じているのかもしれない」

それを畜生のすることだからと笑って済ますことは、瞬にはできなかった。
犬も“死”の概念は持っているに違いない。
にも関わらず、プロキオンが元の主人の帰りを待ち続けているのは、彼が元の主人の死を目の当たりにしていないからだろう。
同じ立場に立たされたなら、周囲の人間にどれほど その人の“死”を語られようと、自分もプロキオンと同じように大切な人の帰還を待ち続けるかもしれない――と、瞬は思ったのである。

「僕は中学生になったばかりだった。まあ、何事にも斜に構えていたい年頃で――弟が可愛がっている犬に興味がないわけじゃなかったが、ほとんどプロキオンに構うことはなかった。プロキオンの世話は何もかも弟がやっていた。だから、プロキオンも弟にだけ懐いていた。――弟が亡くなって、両親はプロキオンを他の家に譲ろうとしたんだが、僕はそれに反対して両親に頼んだんだ。弟の可愛がっていた犬なんだからどこにもやらないでくれ、と。僕が弟と同じようにプロキオンの世話をちゃんとするならという条件付きで、両親はそれを許してくれた。僕は、すぐに、散歩やらエサやりやらの面倒なことを引き継いでしまったことに気付いて、臍を噛むことになったんだが――」

『生き物を相手にすることはそういうことですよね』と、彼は苦笑混じりに瞬に告げてきた。
弟の可愛がっていた犬だからという感傷や、弟を慕い続ける犬を健気と感じる感情だけで、命を一つ引き受けることはできない。
それは、一つの命を生かし続けるのだという強い意思と責任感を抱くことによって初めて成し遂げられる行為なのだ。
中学生になったばかりだった彼は、弟の死によって、彼の弟に遅れて その事実を自覚することになったらしい。

「弟の死はつらかった。それに比べたら、毎日犬を散歩に連れていくことくらい、つらいことでも面倒なことでもないと思えた。他のどんなことも――子供を一人失った両親の期待と愛情が僕一人にかかってくる重さも、受験のつらさも、友だちとうまくいかないことも、失恋したことすら、あのつらさに比べたら大したことではないと感じられて、だから乗り越えてこれた」
「……」

彼が口にする試練は――両親の期待の重さも、受験や、友情や恋が順調でないことも――瞬には経験したくても経験できない幸運な試練だった。
が、“普通の”人間には、そういったことこそが、人生の途上に自然に存在する 乗り越えなければならない試練なのだろう。
瞬は素直に、そして心の底から、失われた弟の命を心の支えにして それらの事柄を乗り越えてきた彼に敬意を抱いたのである。

「弟が喜ぶこと、僕にはこんなことくらいしかできない」
「弟さん、喜んでますよ。きっと」
その時になって彼は、瞬が涙ぐんでいることに気付いたらしい。
「すみません。君が、まるで弟がそうしていたようにプロキオンを可愛がっているのを見て、つい」
「いいえ」
自分語りが過ぎたことを詫びてくる彼に、シュンはゆっくりと首を横に振った――その時。

「瞬ー!」
いつのまにプロキオンとプロキオンの飼い主の家の庭を出たのか、氷河が門の外から瞬の名を呼んでくる。
どうやら彼はプロキオンの追行を逃げ切ったものらしい。
プロキオンは、門の柵に両の前足をかけながら恨めしそうに、彼の手の届かないところにいる金髪の男を見上げていた。

「瞬、早く来い! 星矢がアイスを待ちかねているぞ!」
プロキオンの追行の健気も知らずに そんなことを言う氷河に、瞬は少々憤りを覚えることになったのである。
「すみません。あとで叱っておきますから」
「いや、こちらこそ、引きとめてしまって」
氷河の非情な非礼を、プロキオンの飼い主は気を悪くした様子もなく笑って許してくれた。

「しかし、すごいな。プロキオンの“アタマ撫でて”攻撃から逃げ切るとは。君の彼氏、タダモノではないですね」
「え……」
氷河が自分の彼氏なのもタダモノではないということも、それは厳然たる事実ではあったのだが、感心したように そう言うプロキオンの飼い主に、瞬は引きつった笑みを向けることしかできなかったのである。

健気な犬と 彼の飼い主の家を辞した瞬は、
「人を泥棒か何かみたいに追いかけまわしやがって。ふん。結局逃げ切ってやった」
得意そうにそんなことを言う氷河を、プロキオンより恨めしげな眼差しで見上げることになったのだった。






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