星矢のための買い物を済ませて城戸邸に戻ってから、瞬はずっと不機嫌だった。
何事かを考え込んでいるようで、氷河のちょっかいにも反応らしい反応を示さない。
あからさまに不愉快の表情を作ったり、怒りの感情を表に出したりしない分、瞬の不機嫌は氷河には対処に困るものだった。
今度あの犬に会うことがあったら必ず頭を撫でてやるという約束をして、その夜 氷河はようやく瞬のベッドに入れてもらうことができたのである。
いざ事に及ぶと、瞬の身体とその五感はいつもの通りに敏感で――むしろ、いつもより感じやすくなっていて――瞬は昨夜までと同様に申し分のないパートナーではあったのだが。

「それにしても、あの犬はいったい何だったんだ。俺は、犬にも人にも懐かれるタイプの男じゃないのに」
氷河が事後の話題に、今日出会った巨大犬の話を持ち出したのは、瞬の不機嫌の理由と、瞬の不機嫌が直ったのかどうかを探るためだった。
瞬はあの犬を大いに気に入っていたようだったが、今日 瞬の身に起こったいつもと違う出来事といえば、それはあの犬との出会いくらいのもの。
あの犬が瞬の不機嫌の原因ということもありえると、氷河は考えたのである。

氷河との交合で速く激しくなっていた瞬の鼓動は、そろそろ通常モードに戻りつつあった。
氷河が瞬の剥き出しの肩を自分の方に引き寄せようとすると、瞬は僅かに身体を固くして首を横に振った。
「そんなことないよ。氷河は誰からも愛されて甘やかされるタイプだ」
「……」
あまり褒められている気がしない。
瞬はそれを幸運な資質のつもりで告げたのかもしれなかったが、その瞬自身もそれを褒め言葉として口にしたのではなさそうだった。

「俺みたいに天気屋で感情の起伏が激しい人間は、人間にも動物にも嫌われるだろう。人や動物に好かれるのは、おまえみたいに当たりがやわらかくて優しくて――」
「でも、氷河は愛されてたでしょ。お母さんにも、カミュ先生にも」
「……」
おそらく、それは事実である。
しかし、氷河にとってそれは幸運な事実ではなかった。

黙り込んでしまった氷河に、瞬が、言い訳のように言葉を継ぐ。
「それはもちろん……氷河が彼等を愛していたからでもあったとは思うけど」
氷河が その人たちに愛されたことは降って湧いた幸運ではなく、相応の報いだと、瞬は言おうとしたのだろう。
だが、氷河は、瞬のその見解は買いかぶりにすぎないと思ったのである。
自分がそこまで“できた”人間だと うぬぼれることは、氷河にはどうしてもできなかった。

「俺が彼等に愛されていたことは認めるが……。俺は、彼等が生きている時には、その事実にも その事実の重さにも気付いていなかったからな。俺が彼等を本当に愛するようになったのは、彼等が俺のために死んでしまったあとで――死んでから愛し返されても、彼等は嬉しくも何ともないだろう」
瞬が言う通り、自分は“愛される”幸運には恵まれているのかもしれない。だが“愛する”才能にはあまり恵まれていない――というのが、自分自身に関する氷河の認識だった。

だから、自分は未熟で無様な人間だと思う。
そう思っているのに、愛されたいという気持ちはどうしてもなくならない。
瞬を前にすると、特にその気持ちは強まった。
そして、だからこそ氷河は、『愛したい』と――人を愛することのできる人間になりたいと願わずにはいられないのだ。

「氷河は、氷河が彼等に愛されていたことや 彼等を失ってしまったことを忘れたい?」
「忘れたいな。彼等のことを忘れられれば、その分おまえを愛せるようにもなるだろうし」
「……」
ためらいもなく そう答えた氷河を、瞬がじっと見詰める。
なぜ瞬は今日に限って こんなに切なげな眼差しを自分に向けてくるのか――。
その理由が、氷河にはわからなかったのである。
だが瞬は、確かにいつもより切なげな色を、その瞳にたたえていた。

「それはどうかな……。人は多分、つらかったことや悲しかったことを忘れたりしない方がいいんだよ。どんなに つらくても悲しくても、多分、きっと……」
切なそうに――瞬が氷河の胸に頬を押し当ててくる。
「瞬……?」

なぜ瞬がそんなことを言うのかも、氷河にはわからなかったのである。
つらいことを忘れたいと願うのは、生きている人間が普通に願う願いだと思う。
氷河は、母の死を忘れたかった。
師であった人の死も忘れたかった。

自分が無力な子供だったせいで失われた命。
一方的に愛され、その愛の深さに気付く前に、その愛に報いる前に、彼等は彼等の愛した無力で愚かな子供のために死んでいった。
それは、氷河にとって決して忘れられない、屈辱的なまでに苦い思い出だった。
普段は忘れたつもりでいるのに――忘れて、瞬だけを、生きているものだけを見詰めているつもりでいるのに――その思い出は ふとした弾みで しばしば氷河の脳裏に立ち帰ってくる。
そして、そのつらく苦い出来事を思い出してしまった人間は、自分の無力と愚かさに腹を立てずにいられなくなり、同時に 取り戻すことのできない命が悲しくてならなくなる。
せめて彼等が誰のために死んでいったのかを忘れることができたなら、自分はもっと屈託なく笑い、生き、もっと幸福に人を愛することができるようになるのではないかと、氷河は思わずにいられないのだ。

それらの出来事を忘れることができれば、その分の愛を、今 愛している人に注ぐことができるようになるかもしれない。
そうすれば、自分自身ももっと幸せになることができる――。
『あの悲しい人たちの生と死を忘れることができたなら、俺はもっとおまえを愛せるようになるかもしれないじゃないか』
胸の中にいる生者に、氷河は胸中で そう語りかけた。

それは、自身の無力のせいで――自分の力で――大切な人たちの命を奪った未熟な男だけのことではない。
瞬も――瞬もまた、自分が“敵”を傷付け続けてきた事実を忘れることができたなら、人を傷付けたという罪悪感を抱きながら日々を過ごすことをせずに済み、もっと屈託なく笑うことができるようになるはずである。
瞬はその願いを願わないのだろうかと疑いながら、氷河は、裸の瞬の身体を抱き寄せた。

瞬の身体は細い。
人を傷付けた罪悪感に侵され蝕まれてでもいるかのように、瞬の肢体は細かった。
にも関わらず瞬の身体は熱く、自らが生きていることを激しいほどに主張している。
その矛盾めいた瞬の心身のありようは、氷河には、忘れたいことを忘れてしまえない人間の苦しい足掻きのように思えてならなかったのである。

つらかった過去を忘れることができれば、二人はもっと純粋に互いを愛することに夢中になれるに違いない。
氷河は、そんな夢を夢見ずにはいられなかった。
それが見果てぬ夢であることを、氷河は誰よりも強く明確に自覚していたが。






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