幸い、瞬の羞恥心は、世界の平和と安寧を願う心ほど大きなものではなかったらしく、城砦の中央に位置する塔の部屋の中で、本気になれば青銅最強、へたをすれば神さえも凌ぐと言われている小宇宙を爆発させたにも関わらず、エレフシスの城砦が瞬の小宇宙の力によって崩壊の憂き目を見ることはなかった。
が、だからといって、氷河に対する瞬の怒りが些少のものだったというわけではない。
氷河が平身低頭のていで瞬に謝罪を繰り返し、四六時中その機嫌を取り続けても、恋人に ついてはならない嘘をついた男を、瞬は決して許そうとしなかったのである。

すっかりとげとげしい態度になってしまった瞬を、ほとんど引きずるようにして、氷河が聖域のアテナ神殿に向かったのは、彼の嘘が瞬の知るところとなった夜の5日後のことだった。
そして、氷河は、瞬とアテナ像の前で、彼の女神にとんでもない望みを望んだのである。
「アテナ。俺を全盲にしてくれ」
氷河は、彼にアテナの聖鳥と同じ目を授けた女神に、そう願ったのだった。

人世に人の身を得ていないアテナに直接コンタクトをとる行為は、教皇だけに許された特権である。
一介の聖闘士の馬鹿げた言葉にアテナが応えてくれるはずがないと、瞬は思っていた。
が、それこそ命も投げ出さんばかりに必死な様子の氷河に哀れを催したのか、その日、貴き女神は彼等二人の前に降臨してくれたのである。
もちろん、声だけの降臨ではあったが。

「私のために戦ってくれた者に、そのようなことはできぬ。私は本当は、昼の間だけとはいえ、そなたの視力を奪うようなこともしたくなかったのだ。だが、神は代償なしに人間の望みを叶えてやることはできぬゆえ、仕方なく――」
「しかし、このままでは、俺は二度と瞬と寝てもらえなく――いや」
事実を知ったあとの瞬の怒りと恥ずかしがりようは尋常のものではなかった。
なるべく何も見ないようにして事に及ぶからと懇願しても、瞬は頑として聞き入れず、氷河はあれから ただの一度も瞬との行為に及ぶことができていなかった。
それが どれだけ男を酔わせ、強烈な陶酔と快感を味わわせてくれる行為であるのかを知らなかった頃ならともかく、一度その甘美に浸ってしまったあとでは、瞬の拒絶は、氷河にとって 地獄の業火に焼かれるよりも つらく苦しい拷問だったのである。

「では、代償を差し出しなさい」
「代償と言っても、俺は何も持っていない。命だけは差し出せない」
せっかく瞬を自分のものにできたのに、死んでしまっては元も子もない。
瞬と心身共に一つになる快美は、命と 生きている肉体があればこそのものなのだ。

アテナが、地上の平和のためではなく 己れの恋と欲のためにそんな請願をしてのける彼女の聖闘士をどう思ったのかは定かではない。
だが、知恵と戦いの女神が寛大な女神であることは事実のようだった。
あるいはそれは、寛大というより、彼女の深慮から出た言葉だったのかもしれないが。
彼女は、彼女の哀れな聖闘士に、
「では、そなたには、そなたに与えられた平穏な闇の代わりに、つらい現実を見なければならない光を与えることにしよう」
と、落ち着いた声で告げたのである。

「アテナ……」
アテナのその言葉が何を意味しているのかを先に理解したのは瞬の方だった。
もう一度瞬を抱くために完全に光を失うことしか考えていなかった氷河は、彼女の慈悲に気付くのが遅れた。
彼がアテナの言葉の意味を理解したのは、慣れ親しんだ聖域はもちろん、愛する瞬の姿もアテナ神像の威厳も見えていなかった彼の世界が、突然あふれるような光で満たされ尽くした時だった。
眩しくて、目がくらむ――久し振りに知覚した光は、闇に慣れていた氷河の目に痛みを誘うほど強烈なものだった。

「ありがとうございます!」
慈悲深い女神に心からの感謝を告げ、瞬が、光を取り戻した嘘つきの恋人に抱きついてくる。
光の洪水の中で、氷河がやっと現況――白鳥座の聖闘士が以前のように戦う力を取り戻したこと、瞬の怒りが その喜びの前に霧散してしまったこと――を理解した時、アテナの像は既にもの言わぬ石像に戻ってしまっていた。

再びその腕の中に戻ってきた瞬の身体の温もりと香り。
すべてはアテナの寛大な処置のおかげである。
氷河は言葉にはせず、その胸中深くで、彼の粋な女神のために 自らの命を懸けて戦うことを決意したのだった。






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