「僕が氷河にキスをすると、氷河は、この世界を失うことになる。ここでの穏やかな時間を失うことになる。そして、氷姫の支配する つらくて苦しい世界に戻らなければならなくなる」 「瞬、あれは童話――おとぎ話だ。氷姫の世界などあるはずが――」 瞬が、俺の言葉を遮る。 「ここにいたかったら、僕の心を手に入れることは諦めて。その代わり、キス以外のことなら何でもしてあげるよ」 瞬の心を手に入れることを諦めろだと? 瞬を恋する者に向かって、瞬は何を言っているんだ。 俺は、激しい憤りに支配された。 その憤りは、だが、決して瞬に向けられたものではなかっただろう。 それはむしろ俺自身に向けられたものだった。 瞬の心は既に俺の手の内にあると、一人で勝手にうぬぼれていた俺自身の滑稽に、俺は腹を立てていたんだ。 俺は何ておめでたい大馬鹿者だったんだろう、と。 「おまえの心は俺のものではないというのか」 「僕の本当の心は、氷姫の世界に置いてあるの。ここにはない」 氷姫の世界。 それはどこだ。 瞬は何を言っている。 問い詰めようとした俺の唇に、瞬は、沈黙を誓わせるように右手の人差し指を重ねてきた。 これが、“この世界”で、俺たちに許されているキスなのか。 「他のことなら、どんなことでも叶えてあげる。僕の時間、僕の身体、すべてをこの世界にいる氷河にあげる。でも、心だけはあげられないんだ」 それは、氷姫の世界にいる“氷河”のものだから? 俺は、その時、嫉妬に歪んだ醜い顔をしていたに違いない。 そんな俺を切なげに見上げ、瞬は尋ねてきた。 優しく、だが つらそうな声で。 「僕の心以外で――氷河の欲しいものはなに?」 俺の欲しいもの? それはいくらでもある。 瞬の身体の温かさ、その身体の奥の情熱的な嵐と熱、優しい言葉、綺麗な眼差し。 瞬の他に、俺を不安にする者も、煩わせるものも、苦しめるものもない。 ここは俺の理想郷だ。 だが、俺は――今の俺は、それらすべてのものより、瞬の心が欲しかった。 瞬の本当の心を抱きしめることができるのなら、二度と瞬の身体を抱けなくなってもいいとさえ思った。 一生を地獄の中で もがき苦しみながら生きていくことになっても構わないとも思った。 「おまえの心だ。俺が欲しいものは。おまえにキスさせてくれ」 俺は、瞬にそう告げた。 俺の答えを聞いた瞬が、苦しそうに眉根を寄せる。 だが、その瞳は――瞬の瞳の奥には、まるで死にかけていた子供が新しい生命の息吹を吹き込まれでもしたかのような輝きが宿り始めていた。 「僕にキスしたら、氷河は僕の本当の心を手に入れることになる。でも、後悔するかもしれないよ」 「しない。後悔などするはずがない」 後悔なんてするはずがない。 俺は瞬を愛している。 瞬を求めている。 同じだけの強さと真実をもって、瞬に愛されたい。 同じだけの強さと真実をもって、瞬に求められたい。 その願いが叶わないなら、俺が生きていることにどんな意味があるだろう。 俺は瞬を抱きしめ、ためらうように俯く瞬の顔を上向かせ、そして、その春に咲く花の花びらのような唇に俺の唇を重ねた。 初めて触れる瞬の唇は優しく温かく、そして、その口付けは――苦かった。 痛みを覚えるほどに、苦しかった。 「瞬…… !? 」 瞬が俺を見詰めている。 つらそうな目――見詰められている俺までが苦しさを覚えるほど強い眼差しで。 『でも、氷姫はとても美しい姿をしていて、大抵の人間は自分から二度目のキスを彼女に求めてしまうんですって』 瞬が俺の氷姫だというのなら、多分これは俺の運命だったんだ。 その運命を、俺は俺の意思で選び取った。 アンデルセンの氷姫は、彼女の力で命を永らえ成長した若者たちを 彼女の世界に連れていくことを喜んでいたんだろうか? それとも、それは彼女の本意ではなく、実は彼女自身は悲しんでいたんだろうか。 氷姫の世界――それは、彼女に命を与えられた者たちが、彼女に出会わなければ、幼い頃に赴いていたはずの世界。 彼女のキスで束の間の夢を与えられた者たちが本来存在していた世界だったんだろう。 優しくて強い瞬の眼差しに見入りながら、俺はそんなことを考えていた。 俺の意識が、強い力でどこかに引っ張られる。 このまま瞬と離れてしまうことを恐れて、俺は瞬の方に手を伸ばしたが、瞬の姿は既にそこには存在していなかった。 「瞬…… !? 」 俺がほしい、たった一つのもの。 俺が失いたくない たった一つのもの。 その姿と心を求めて、俺は瞬の名を絶叫した。 |