そういうわけで、カミュは、ろくに戦の疲れを取ることもできぬまま、今度は氷河を自室に呼びつけて、彼の分別のない恋をいさめる仕事にとりかかったのである。 母を亡くして泣いていた子供は、恋を知って注意深い男になったらしい。 叔父に呼び出しを受けた氷河は、自分から用件を尋ねることもせず、探るような視線を叔父に向けてきた。 そんな氷河に、カミュがいたって穏やかな笑みを見せる。 「戦場から帰った早々で何だが、私はそろそろ この男爵家を正式におまえに継いでもらおうと考えている」 「は……?」 「となると、当然、おまえには身分にふさわしい奥方が必要になるわけだが――」 「ちょ……ちょっと待ってくれ、何の話だ」 戦場から帰るなり、突然突拍子のないことを言い出した叔父に慌てて、氷河が叔父の話の腰を折る。 それは氷河にとっては、正しく“突拍子のないこと”、まさに寝耳に水の話だった。 なにしろ、 「そんなことを勝手に決められては困る。俺は爵位なんて継ぐつもりはないぞ。それは当然 叔父上が継ぐべきものだろう」 というのが、氷河の希望であり、また当然そうなると考えていた彼の人生設計でもあったのだ。 爵位に就くようなことはせず、宮廷にあがるようなこともせず、無位の散人として気楽に、戦地に赴いて留守がちの叔父の代理人として領地経営に勤しむ――というのが。 叔父に家に落ち着いてもらって、入れ替わりに自分が軍に入ることを考えたこともあったが、氷河はその考えは かなり早い時期に放棄していた。 瞬を戦場などに連れていけるわけがない。 「そうはいかん。私はもともと傍系の出だ。この男爵家の直系の跡取りはおまえになる」 「なぜです。もともと叔父上は、そのためにこの家の養子に入ったんでしょう。娘しか持たなかった俺の祖父が、甥であるあなたにこの家を継がせようと考えてそうしたと、俺は聞いている。直系も傍系もない」 「おまえは、いずれ この国の王になる男だ。いつまでも無位のままでいるわけにはいかないだろう」 不肖の甥に爵位を譲りたいという彼の意思が“突拍子のないこと”であるなら、不肖の甥が王位に就くことを自然の成り行きのように語る彼の認識を何と表すればいいのだろう。 “狂気”か“野望”か、あるいは“夢”か。 夢だとしても、それは氷河にとっては悪夢だった。 「……寝言を言うには少々早すぎる時刻です、叔父上」 悪夢でも、夢にしておく方が危険は少ない。 氷河は自分のためというより、叔父の身の安全のために、それを“夢”にしてしまおうとしたのである。 しかし、夢を見ている人間は、自分は目覚めていると言い張った。 「寝言ではない。おまえは前国王の息子、現国王を除けば、この国の王家の血を引く ただ一人の男子だ」 「俺の母は、正妃ではなかった」 「それがどうだというんだ」 「今の王が、そのうち息子を儲けるだろう。その子が次期国王になる」 「今の王は病弱で、それは期待できない」 「叔父上がそんな野心を抱いているとは思ってもいませんでした」 「野心ではない。王位奪取のために挙兵するつもりもないしな。私は、現在の王室の状況を考えれば、当然そうなるだろう未来を語っているだけだ」 「王太后が許さないでしょう」 氷河の言葉に、カミュの口許が一瞬引きつる。 彼女の存在を忘れるほど、カミュは夢に溺れているわけではないようだと、叔父のその様子を見て、氷河は僅かに心を安んじた。 3歳になるかならぬかで王位を継いだ現国王は、現在19歳。 彼――氷河の腹違いの兄――が生まれた3ヶ月後に、氷河は生まれた。 寵妃の存在は知っていても、我が子が生まれた僅か3ヶ月に、自分以外の女が夫の子を産んだという事実は、名門出の誇り高い正妃には、尋常でない衝撃であり、屈辱だったのだろう。 彼女が、氷河の母とその子を憎むようになったのも、無理からぬことと言えた。 彼女の出産は、いってみれば正妃としての務めであったのに対し、氷河の母の出産は王の寵愛の結果だった。 正妃の無事な出産を、前王は国を挙げて臣下や国民に祝わせたが、氷河の母の出産は――何より、王自身が手放しで喜んだ。 そんな夫の態度を見せつけられた正妃が、夫が死んで最初にしたことは、氷河の母を宮廷から追放すること。 そうして、夫の死後、彼女は、幼くして王位に就いた我が子の執政として十数年の長きに渡って 宮廷の支配者であり続けた――今も、その支配は続いている。 氷河が夢にしようとしなくても、カミュの狂気は夢で終わるはずのものだった。 この国の現実が見えていないはずはないのに、 「王太后が許さなくても、そうなる」 カミュは夢を語り続ける。 氷河は、叔父の狂気を払いのけようとするように首を横に振った。 「叔父上は長い戦でお疲れのようだ。馬鹿な夢は、夜になってから お一人で見ていただきたい」 これ以上、叔父の前に彼の野心を煽る者がいることは良くないと判断し、氷河は叔父の部屋を出ようとした。 その氷河の背に、カミュの声が降ってくる。 「未来の国王が不品行なのは問題だ。小間使いや町娘との火遊びなら、若い頃にはよくあることと世間も大目に見てくれるが、同性の恋人などもってのほか。おまえは有力貴族の娘を妻に迎え、あの虚弱な王とは違って子を儲けることができることを世間に示さなければならないんだ」 「俺を種馬みたいに言わないでくれ。その有力貴族の娘とやらを王太后のような女にするつもりか。俺は瞬を愛し――」 どんなことでも、不必要なほどの大声できっぱりと断言するのが身上の氷河が、その言葉を言いよどむ。 照れているのか、そんなことを大声でがなりたてることを不粋と感じているのか、あるいは、それは王の血も野心も狂気もない場所でのみ語られるべきことと思っているのか――ともかく、“囁く”ことを覚えた氷河が、この恋に真剣なことだけは、カミュにも見てとれた。 「氷河、おまえは、今 自分が捨てようとしているものの価値がわかっているのか!」 「叔父上に何と言われようと、俺は爵位も王位も継ぐつもりはない。俺は瞬しか欲しくない!」 氷河が、これはきっぱりと言い切る。 しかし、カミュは動じなかった。 「若い頃の恋とはそういうもの―― 一時の熱病のようなものだ。あとになって冷静に考えてみれば、特段優れたところがあるわけでも何でもないと思えるような人間を、これこそ運命の相手だと信じ込んで暴走する。そんなことはよくあることで、それが悪いことだと言っているわけではない。よい経験にもなるだろう。だが、おまえは、この国の王となる身、そこいらの貴族の馬鹿息子共と同じ振舞いをすることは控えろと言っているんだ」 「一時の熱病? 俺のこの熱病は、今の国王の在位期間と同じだけ続いている長い病気だ。冷める時は永遠にこない!」 暴走している者を無理に止めようとすることの危険を、カミュは知らぬでもなかった。 肩を怒りに震わせて叔父の執務室を出て行く氷河を、彼はそれ以上 引きとめようとはしなかった。 昔から我の強い子だったのだ、氷河は。 周囲を敵に囲まれた王宮で、王の寵愛以外に頼れるものを持たずに孤立している母を守り続けてきた。 父王が亡くなり、氷河が母と共に 生家である この館に戻ってきたのは僅か2歳の時だったが、その時 氷河は既にいっぱしの騎士気取りで母を慰めることさえしていた。 この館で従姉にして義理の姉である氷河の母を出迎えたカミュを、敵か味方か見極めようとするかのように睨みつけ、最初の数日間はろくに口をきこうともしなかった。 強くなければ自分は生きていけないことを、周囲の空気から氷河は察していたのだろう。 弱い者は他人に利用されるか、消し去られる。 本能と言っていいような勘の良さで、自分の置かれている立場を理解していた氷河は、だからこそ逆に、他人の顔色を窺うことなどせず自分のしたいことをする人間になった。 邪魔をする者は無視するか、取り除く。 ある意味では、それは非常に王者にふさわしい性格だった。 そんな 未来の王が叔父の言葉に従おうとしないことに、だが、カミュはさほど失望してもいなかった。 これくらい強い意思を持っていなければ、氷河は、生母の言うことをきくしか能のない現国王のように存在感のない王になってしまうだろう。 氷河の意思の強さは、むしろカミュには望ましいことだった。 だからこそ、彼の未来に影を落としかねないものは今のうちに排除しておかなければならないのだ。 「瞬に当たった方が早そうだな」 カミュは、未来の王の意思を変えることを早々に断念し、搦め手から攻める策を採ることにした。 |