「何をしても無駄だ。俺の母に前王の寵愛を奪われて、王太后は、その息子である俺も憎んでいる。現国王が跡継ぎを儲けることができなくても、王太后は俺に王位を渡すくらいなら、実家から養子を迎えるくらいのことは平気でするに決まっている」 「王家の血を引く者がいるというのに、他国の者に王位を渡すというのは理に合わない。反発する者も多く出るだろう」 「理を唱えるのも筋を通そうとするのも結構だが、叔父上は、人には情というものがあることをご存じか? 俺でさえ、王太后が俺を憎む気持ちは理解できるんだ。驕っているわけではないが、彼女を哀れだとも思う。同じように王太后の心を解する者は多くいるだろう。それに、何といっても、王太后には この十数年間 執政として国を治めてきた実績がある」 「情だと? 情というのなら――おまえは、おまえとおまえの母からすべてを奪った王太后が憎くはないのか? 一国の王でありながら、おまえとおまえの母のために何ひとつ残してくれなかった父が憎くはないのか? 王太后の憎しみを理解する者は、おまえの憎しみも理解するだろう。王太后の実績だと? 主体性のない王を操って戦ばかり起こして、我々が率いている軍隊が脆弱だったら、この国はとうの昔に地上から消滅していたぞ!」 「……」 本来の性向としては全く冷静ではないくせに冷静を装う振りの巧みな叔父の激した目に、氷河は一瞬 想像していた以上に、この叔父の考えを変えることは難しいことのようだと気付く。 「おまえを王位に就けることは、おまえの母のためでもある。おまえの母の無念をはらすため」 正嫡ではないにしろ王子である者と、王子の生母である者を、第三者の目から見たら不遇としかいいようのない境遇に追いやった王太后を、氷河とて何のこだわりもなく同情し哀れんでいるわけではなかった。 だが、その自分のこだわりなどより、カミュの憎悪は はるかに激しい。 「おまえの母は、王に無理矢理愛人にさせられて、その王が死んだ途端、着の身着のままとしか言いようのないありさまで、王宮から子供と一緒に追い出されたんだぞ。ナターシャは善良な女だった。野心もなかった。それを、まるでいらなくなった玩具のように――。せめておまえが王位に就きでもしなければ、ナターシャがあまりにも哀れではないか!」 叔父の口から母の名を聞くのは久し振りのこと――もしかしたら初めてのことかもしれなかった。 カミュはいつも氷河の母のことを『 氷河の父である前王は、彼の寵妃とその息子のために、自分の死後の指示を何も残していなかった。 その死自体が、正妃による暗殺と噂されるほど突然なものだったせいもあるが、そこには氷河の母が王に何かをねだるようなことのできる女性ではなかったという事情もあっただろう。 正妃は、夫の死を知るなり、氷河の母を宮廷から追い払い、追放された母子には前国王の哀れな元寵妃、前国王の見捨てられた庶子という肩書きだけが与えられることになった。 だが、氷河は、王太后が自分と母に向ける憎しみに、むしろ感謝に似た思いを抱いていたのである。 彼女の憎悪のおかけで、氷河は、権力闘争と陰謀が渦巻く堅苦しい宮廷から解放され、自由を得、そして瞬と巡り会うことができたのだから。 「おまえの身体に流れている王家の血。それは男爵家の爵位や領地より価値のある おまえの財産だ。おまえがこの国の王になれば、おまえの母の血が、この国の王家に脈々と流れることになる。おまえの母の命を栄光の中で永遠のものにしたいとは思わないのか!」 カミュが語る王位への執着を、叔父の狂気か見果てぬ夢だと、昨日までの氷河は思っていた。 だが、今日のこれは――“狂気でできた夢”とでも表した方がふさわしい。 妄執でできた悪夢である。 叔父が正気でいるのかどうかを、氷河は本気で疑い始めた。 理を唱え、 氷河にはそうとしか思えなかった。 「俺の母が、そんなことを望む女性だったとは思えない。彼女が望むのは、俺の幸福だけだ」 「身分も地位もない捨て子と毎晩戯れて過ごすのが、おまえの幸福か」 「そうだ」 それ以上の幸福がどこにあるだろう。 優しく美しく善良な人間を愛し、愛した者に愛され、その幸福を願い、幸福を願われること以上の幸福が、いったいどこにあるというのか。 氷河の願う幸福は、だが、カミュには認められないものであるらしかった。 それは王の血を引く者には許されるべきではない幸福と、彼は考えているようだった。 「おまえの身体には王家の血が流れている。現国王が子を残さずに死去すれば、おまえが望む望まないに関わらず、おまえを次期国王に担ぎ出そうとする者が大勢出てくるだろう」 「俺には関係のないことだ。俺には、自由に恋をする権利もないのか」 「あるわけがないだろう」 事も無げにそう断じ、甥の言葉を鼻で笑うカミュに、氷河は目をみはることになった。 叔父は頭が硬く、礼節を重んじる余り頑迷なところはあるが、人間の持つ自由をここまで簡単に否定するような男でもないと、氷河はこれまで信じていたのである。 「そんな権利は誰も持っていない。王も貴族も平民も」 「それでも、俺は俺の好きにする」 「身分も何もないあんな孤児のために、望めば手に入る王位を捨てるというのか!」 「俺にとっては王位より価値のあるものを、瞬は俺に与えてくれるんだ!」 氷河とカミュの理と情は、永遠に交わることのない平行線のようなものだった。 氷河にとって価値のあるものがカミュには無価値であり、カミュが執着するものに氷河は何の価値も見い出せないのだ。 「分をわきまえぬ振舞いをする者は、すべての人間に憎まれるぞ。王が尊大でなければ、彼は気概のない不甲斐ない王と人々にあざけられ、貴族が平民と馴れ合えば、人品が卑しいと非難され、平民が力を手に入れて貴族社会に入り込もうとすれば、成り上がり者と軽蔑される。身分のない世界などない。世の中には、支配する者とされる者、持てる者と持たざる者がいて、その関係から逸脱する者は社会の制裁を受ける。そして、おまえは王の子として生まれたのだ。それにふさわしい言動を為せ」 「人間はみな、神の前に平等だろう」 「貴族も平民も? 強い者も弱い者も? 馬鹿げた幻想だ。神の前に平等なんて言い草がまかり通るのは、せいぜい聖域の聖闘士たちくらいのものだ。その聖域でも、才能の有る者と無い者、努力した者としなかった者との間には立場の上下が生じるという話だ。身分の上下、支配被支配の関係を作ることが人間は好きなんだ。そうして、人は自分の位置を自覚することで安心する。そうすれば分不相応な夢も見ずに済んで、大きな失望を味わうこともなくなる。他でもない、おまえの瞬がそういう人間だろう。私がおまえを諦めろと命じると、瞬は迷いもせずに私に頷いてみせたぞ」 痛いところを衝かれて、氷河は言葉に詰まった。 瞬が、瞬の愛する者のためにそうしたことはわかっている。 それでも、氷河には、それは瞬の卑屈としか思えないものだったのだ。 反駁の言葉が途切れた氷河に、カミュが畳みかけてくる。 「逆に考えろ。王位に就けば、おまえは私に命令を下すことのできる立場になる。おまえの自由を束縛することのできる者は誰もいなくなる。無論、正妃は迎えなければならないだろうが、瞬を愛人として側に置いても誰も何も言えなくなるんだ」 「瞬を俺の母のようにしろというのかっ」 「ほう。それが屈辱的なことだということはわかっているんだな。では、おまえの母の無念もわかっているというわけだ」 「……!」 カミュが、勝ち誇ったように言う。 いっそ本当に王になって、その口を閉ざすよう叔父に命令を下したいと、氷河は馬鹿な考えに囚われた。 |