氷河が瞬の部屋に入っていった時、問題のCDは、ちょうどモーツァルトの『ピアノ・ソナタ 第15番ハ長調K.545』の演奏を始めたところだった。 本来は明るく軽快な曲。 それが、苦痛にのたうつような重い音に変わって、瞬のいる空間を覆い尽くしている。 氷河には、その音が人の心に良い影響を与えるものだとは思えなかった。 眉をひそめ、瞬のベッドの側に歩み寄る。 「大丈夫か。メシを食う元気もないそうだが」 身体を小さく丸めるようにしてベッドに横になっていた瞬が、氷河の声に縦にとも横にともなく首を振る。 自分が病人ではないことを主張するためか、瞬は夜着に着替えてはおらず、普段着のままで掛け布の上に身体を横にしていた。 その身体を、瞬が、ゆっくりと、いかにもだるそうな様子でベッドの上に起こす。 氷河は、瞬のその表情にも仕種にも、いつもの瞬らしい溌剌さを全く見い出すことができなかった。 「瞬、いったい――」 瞬はもしかしたら、氷河に『この音を聞くのをやめろ』と言われることを恐れたのかもしれなかった。 おそらく、そのために、瞬は氷河の言葉を遮ったのだ。 「会いたいの……。この演奏をしている人に会いたい。どうしても――どうしても、会わなきゃならないような気がするんだ」 「……」 思い詰めた目をした瞬にそう言われてしまっては――瞬にそう願われてしまっては――氷河としても、瞬の望みをくだらないと一蹴することはできなかったのである。 たとえどんな望みでも、それが瞬の望みなら叶えてやりたいと思ってしまうのが、氷河という男だった。 瞬によって、氷河はそういう男にされてしまっていた。 だが、こんな瞬の姿を見ていたくないと思ってしまうのも、氷河が氷河であるからだったのだ。 「こんなふうな僕、変だと思ってるでしょ」 自嘲するように氷河に尋ねる瞬は切なげで――というより、瞬は悲しそうだった。 そして、つらそうだった。 平生の瞬と違いすぎる瞬にショックを受けて――だが、氷河が微かに首を横に振る。 「……いや」 「変なんだ。自分でもわかってる。なのに……」 そう言って無理に笑う瞬は 泣いている瞬よりも頼りなく見えた。 そして、瞬のその姿は、氷河の胸をも苦しくさせた。 「瞬、ちゃんと眠った方が――」 瞬がつらいのは、心なのか身体なのか。 氷河にはそれはわからなかったが――おそらく両方なのだろうとは思ったのだが――、ともかく瞬がひどく無理をしていることだけは、氷河にもわかった。 せめて身体だけでも――少しでも楽にした方がいいと言おうとした氷河の機先を制して、瞬が首を横に振る。 それから瞬は顔を力なく伏せ、くぐもった声で小さく呟いた。 「僕……僕は、氷河のことが好きなんだと思ってた」 「なに?」 瞬の呟きは、その半分が、異様に軽快なショパンの『舟歌』にかき消されることになった。 自分は瞬の言葉を聞き違えたのか、あるいはそれは幻聴だったのかという面持ちで、氷河は目をみはることになったのである。 それは聴き違いでも幻聴でもなかったようだった。 瞬が、顔を伏せたまま、小さな呟きを続ける。 「なのに、あのピアノ演奏を聴いてからは、あのピアノの音のことしか考えられなくなって、あの音にがんじがらめにされて、身動きがとれない。僕、変なんだ。僕は、自分がどうしてこんなふうになってしまったのか、全然わからない。自分の心がわからない。あんなに氷河のことが好きだったのに、今は――。だから、あのピアノを演奏した人に会ったら、その理由がわかるかと思って……」 不意打ちのように思いがけず、瞬から恋の告白を受けてしまった氷河は、ベッドの上で俯いている瞬をまじまじと見下ろすことになったのである。 「瞬、俺は……」 恋の告白といっても、瞬はそれを“終わった恋”の告白と思っているふしがあった。 喜んでいいのか悲しむべきなのか、この恋に希望はあるのか、あるいはそれは もはや沈黙するしかない恋なのか。 氷河が困惑の表情を浮かべ、それを見てとった瞬が悲しそうに笑う。 「ごめんなさい。僕……そうだね、僕、少し眠る。僕、やっぱりどこかおかしいみたい」 「あ……ああ」 氷河の声はかすれていた。 喜ぶことも悲しむことも、今の氷河にはできなかった。 どちらかを実行したいとは思うのだが、瞬の心をはっきりと読み取ることのできない今の氷河には、自分がどう感じ、どう行動すべきなのかを判断する術がなかったのである。 今の氷河にできることはベッドに横になろうとする瞬に手を貸すことだけで、その時氷河は初めて、瞬の身体が尋常でない熱を帯びていることに気付いた。 |