「しかし、珍奇な踊りを踊る以外、何の芸もない奴だと思っていたら、とんでもない芸を持ってたんだな、おまえ」
昼食をとっていない瞬のために、沙織はしっかりしたアフタヌーンティーのセットを用意させたのだが、ラウンジのテーブルに運ばれてきたスコーンやサンドイッチに最も積極的に手を伸ばしているのは天馬座の聖闘士だった。
鯨飲馬食を地でいく星矢が、感心したように氷河に言う。
星矢の嫌味は氷河の耳に届いていないらしく、彼は、大人しくソファに腰をおろしている瞬を無言で見詰めているばかりだった。
氷河に綺麗に無視された星矢を哀れむように、沙織が彼の言葉を引き受ける。

「星矢も楽譜の読み方さえ覚えれば、ピアノを弾くことは可能よ。聖闘士の反射神経をもってすれば、1秒以内に鍵盤を幾つも叩くことは可能でしょ。人差し指1本で和音を作ることもできるわ」
「しかし、心が伴っていなければ、それは演奏ではない」
ピアノの音に心をこめることのできる男を横目に見ながら紫龍が言い、
「そうね」
沙織は、龍座の聖闘士が入れた茶々に、真面目な顔で頷いた。

「いずれにしても、氷河のあれは一発芸よ。瞬には永遠に有効な芸かもしれないけど」
「もうCDは出さないんですか? これだけ売れれば、他社から二番煎じも出てきそうだ」
「それはどうかしら。氷河の演奏は、斬新なだけじゃなく、技術が伴っていたから売れたのよ。あの演奏は相当の技術を持っていない人間には無理。そして、まともな技術を持っているピアニストは、旧来の演奏方法を変えないでしょう。そんな危険を冒すことをクラシック畑の人間はしない――できないのよ」
それを正しい道と考えているのか、冒険心に欠けた臆病と考えているのか――沙織は、不思議な笑みを その口許に浮かべた。
その不思議な笑みを浮かべる女性は、演奏家としては冒険をしないタイプの人間なのだから、なおさら紫龍はその判断に迷ったのである。

「ピアニストに限らず、演奏家というものは作曲家の追従者なの。作曲家は、自分の伝えたい思いや場面、表現したいものがあって、作品を作る。演奏家は、作曲家の意図を最良の形で音にする限りにおいてのみ、その個性を発揮することが許される。そうすることのできる者が良い演奏家とされる。だけど、氷河の演奏は、他人の作った曲を自分の曲にしてしまっているわ。できるだけ正しく作曲家の意図を表現するのが使命であるはずの演奏家がそんなことをしたら、まあ、クラシック界で生きていくことは許されないわね。常軌を逸した天才でない限り」

「演奏家って、そんなもんなのか? 自分の言いたいことも言えないなんて、作曲家の下僕かよ。他人の代弁ばっかりしてたら、つまんねーだろ」
いつになく鋭い星矢の指摘に、沙織は僅かに首を右に傾けた。
「オーケストラの一員となると、そこに更に指揮者の意図という束縛が加わることになるわ。だから、自分の言葉を音楽にしたい演奏家は、自らが作曲家になろうとするのよね。悲しいかな、それで成功する人はとても限られているのだけど。演奏家というのは、自分が共鳴できる作曲家や作品を選んで――他人の作った世界・他人の作った作品の中でこそ、最も自分を表現できる人種なの。でも、氷河はそういう人種とは違っていて――」

「俺はその曲を作った人間じゃないから、元の曲をどれほど素晴らしいと思っても、その曲が完全に俺の心と重なり合うことはない。だが、ちょっと変えれば俺の心になる曲があって、そうした。作曲した奴等は怒るのかもしれないが」
氷河が星矢たちの会話に加わることをしたのは、瞬が彼等の話す事柄に興味深げに耳を傾けていたから――のようだった。
視線だけは相変わらず、氷河は瞬の上にだけ注いでいる。
「まさに二次創作だな」
過ぎるほど自身の心に正直な氷河に、紫龍はさすがに呆れたような顔になった。

「ベートーヴェンの劇的な豊かさの上に氷河の情熱を重ねたり、モーツァルトの軽快な明るさの中に氷河の恋への期待や不安を溶かし合わせて迫られたら、瞬の心だって冷静ではいられないでしょう。楽聖だの神童だのピアノの魔術師だのピアノの詩人だの音の魔術師だのが、揃って氷河の恋の後押しをしているんだから、瞬に抵抗できるわけがないわ。イチコロよ」
瞬の頬がほのかに上気したのは、アテナの用いた死語があまりに的確なものだったせいかもしれなかった。
「瞬に熱を出させて、ブっ倒れさせるなんて、氷河の二次創作も強烈だよな」
「おまえは作曲家になろうとは思わないのか。そんなに瞬に訴えたいことがたくさんあるのなら、曲想だって湯水のように溢れてくるんだろう?」

半ば以上が冗談だったろうが、紫龍のその質問に、氷河は明答を与えなかった。
紫龍には曖昧な笑みだけを返して、瞬に向き直る。
「瞬、二人だけで話したいことがある。庭に出ないか」
「あ……あの……はい……」

二重の恋の謎から解放され、瞬は先刻よりはずっと落ち着きを取り戻していた。
それでも、一人で空回りをしたあげく、子供のように熱まで出して仲間に迷惑をかけたことへの羞恥と申し訳なさからは、瞬はまだ完全には解放されていなかった。
どう謝罪したものかと迷いながら、瞬が、おそらく今回の件でもっとも心配をかけた星矢に視線を投じると、星矢は仲間の謝罪を受けつける気もないような顔で、『さっさと行け』と瞬に目で合図を送ってきた。
「ごめんね、星矢。ありがとう」
謝罪というより礼を告げて、瞬は氷河と一緒に、仲間たちのいるラウンジを出たのである。


「んー……」
星矢としては、瞬が元気になってくれて、食事とおやつが美味ければ、自分の人生に何の不満もなかった。
どうなることかと懸念していた事態も落ち着くべきところに落ち着こうとしている。
ただ星矢は、
「氷河の奴、否定しなかったけど……ほんとに作曲家になるつもりかよ」
と、そのことだけが心配だった。
“心をこめた”演奏ひとつで、あれほど瞬を取り乱させることのできた氷河が作曲など初めてしまったら、瞬の心は今回の騒ぎどころではなく落ち着かないことになってしまうのではないかと、それだけが。

「あの氷河がそんなものになれるんですか?」
「それは……何とも言えないわね」
瓢箪から駒を出す企画を大当たりさせることのできる知恵の女神にも、さすがにそれはわからないようだった。






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