城戸邸には青銅聖闘士が9人帰ってきていた。
あの高慢ちきなお嬢サマが何やら企んでいるという話が洩れ聞こえてきたが、俺はそんなことには一向に興味が湧かず、ひたすら瞬の涙を見たいという思いだけに囚われていた。
瞬が泣いてくれる時を黙って待っているのも芸がない。
瞬の涙に飢え渇いた俺は、ある日 瞬に水を向けてみたんだ。
「おまえ、泣かなくなったんだな。昔は日に1、2回は必ず泣いていたのに」
と言って。

「いけませんか?」
俺は、昔話を語るように――わりと穏やかな口調で言ったつもりだったんだが、瞬の返事は俺に噛みつかんばかりに刺々しいものだった。
「そんな気の立った猫みたいな目をするな。恐いじゃないか」
言葉の綾じゃなく、俺は本当に恐かった。
こんなふうに、人に手を伸ばすことを躊躇させるほど全身を緊張させて攻撃的な猫ってのは、大抵は人間にいじめられ傷付けられた経験を持つ猫だ。
だから、人が近付いていくと、全身の毛を逆立てて、近付く者を威嚇するんだ。
瞬がもし、そんな猫と同じ経験をしてきたのだとしたら、その時瞬の側にいてやれなかった俺自身を、俺は悔やまずにいられない。
そうではないことを、俺は祈った。

「おまえは変わった。昔はもっと――そんなに肩肘を張ってなくて、素直で可愛かったのに。素直に笑って、素直に泣いて、優しくてやわらかで――俺は、そんなおまえが好きだったのに」
言葉につい、溜め息が混じる。
俺の好きだった瞬はもういないのかと、もしかしたら俺の口調は少々恨みがましいものになっていたかもしれない。
それまで俺を上目使いに睨みつけていた猫は、微かに眉根を寄せ俯いてしまった。

きついことを言いすぎたかと、俺は大いに慌てたんだ。
瞬は泣かなくなっただけで、その瞳は以前と同じに澄んでいる。
瞬の心は冷徹になったわけではないし、瞬はその感受性を失ったわけでもない。
ただ泣かなくなっただけで。
そして、それは決して責められるようなことじゃないんだ。
「すまん……。悪気はなかった。おまえは聖闘士になって――強くなったんだな。悪かった」

人に傷付けられ攻撃的になっている猫に 元の穏やかさを取り戻してほしいと思ったら、人は自分が傷付くことを覚悟して、その手を気の毒な猫に差し延べてやるしかないだろう。
俺はそうした。
瞬にはそれだけの価値があると思ったから、俺は、俯いている瞬の髪に手を伸ばし、指で触れ――。

その時だった。
城戸邸の庭の芝生の上に、真珠が転がり落ちたのは。
「ん?」
比喩じゃない。
それは本物の真珠だった。
少し青味を帯びた、小さな球が2つ、3つ。
いったいこれはどこから現われたんだと訝った俺に、突然瞬が抱きついてきた。
「どうしよう……! 氷河、僕、どうしたらいいのっ!」

俺が驚いたの驚かないのって。
瞬のこの大胆なアプローチ。
瞬がこの6年間で やたらと綺麗になったように、俺もそれなりにいい男になったつもりでいたから、瞬がよろめくのも当然のことと やにさがっていられたのは、だが、せいぜい5、6秒のことだった。
瞬は、いい男になった俺にいかれて旧友に抱きついてきたわけじゃなかったんだ。
自分ではいかんともし難い窮状に追い込まれ、古い仲間に救いの手を差し延べてほしくて、瞬は俺にすがりついてきた。

城戸邸の庭の緑の芝生に転がり落ちた、どこか寂しい色をした数粒の真珠。
それは、瞬の瞳から零れ落ちた涙だった。
瞬の涙が、瞬の身体を離れた瞬間に硬質の球体に変わり、転がり落ちたものだったんだ。






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