「僕は、涙が嫌いだった。すぐに泣く自分が嫌いだった。悲しくても嬉しくても つらくても楽しくても、僕の目はすぐに涙を零す。涙なんて何の役に立つのかと、ずっと思ってた。アンドロメダ島に行っても、僕の泣き虫は一向に治らなくて、いつもみんなに馬鹿にされてた。あの島には、氷河みたいに泣き虫の僕を好きだと言ってくれる人はいなくて――僕が泣くと、馬鹿にしてからかうか、『泣くな』と言う人しかいなかったから……」 人はなぜ、涙というものを否定的に捉えるんだろう? もちろん、涙を卑劣な武器として使う奴等はいる。 自分を弱い人間に見せるためや 自分の罪を隠すために涙を流し、他人の同情を買い、助力を手に入れようとする卑劣な人間がいることは、俺も否定しない。 だが、瞬はそんな奴等とは違う。 瞬の涙を見たら、そんなことは誰にだってわかるはずだ。 瞬は人の同情を手に入れるためじゃなく、自分の苦しみや悲しみを自分で耐えるために、強くなろうとして、あの綺麗な涙を流すんだ。 俺が懸念した通り、瞬が連れていかれたアンドロメダ島には、そんな当たりまえの判断力と美意識を持った人間がいなかったらしい。 一輝みたいに不粋で頑迷な輩しか。 城戸邸の庭の、白い花をつけた 「それでも、泣くことができたから、僕はあの島での生活にも厳しい修行にも耐えていられたんだって、今ならわかる」 「ああ」 そうだ。 涙っていうのは、そういうもの。 懸命に生きている人間が涙を流す時、それは卑怯な武器なんかじゃなく、ただ優しい癒しの術なんだ。 苦しさと悲しみを涙に込めて流し、人は再び立ち上がろうとする。 だから、泣けない人間は不幸だ。 俺はそう思う。 「アンドロメダの聖衣を手に入れるには、サクリファイスっていう儀式に臨んで生き残らなきゃならなかったんだ。島の沖合いにある岩場にアンドロメダ聖衣のチェーンで繋がれて、そこから小宇宙を燃やして抜け出なきゃならないの。もう何百年も誰も成功させたことのない儀式だって、先生は言ってた。でも、僕は、その時にはもう小宇宙を身につけてたし、何とか僕の身体を縛りつけていたチェーンを解いて、犠牲の岩場から逃れることができたんだ。そして海上に出ようとしていた僕に、どこからか声が聞こえてきたの。『新たなアンドロメダの聖闘士の誕生を祝して、そなたの願いを一つだけ叶えてやろう』って」 アンドロメダの聖衣を手に入れ、兄との約束を果たすことは自力でできた。 他に望むことのなかった瞬は、その時、その不思議な声に、『僕を涙を流すことのない人間にしてください』と答えたんだそうだ。 そして、瞬は、あの綺麗な奇跡を失った――。 瞬は、その声を、かつてのアンドロメダの聖闘士たちの声だと思っているらしい。 瞬の推察が正しいのかどうかはわからないが、だとしたら、アンドロメダの聖衣は、他の聖衣とは何かが違っているんだろう。 力と強さを備えていれば手に入れることのできる他の聖衣とは。 「――ペローの童話に『宝石姫』という話があったな。正直で親切な娘が、その善行の代償として、何か話すたびにその言葉が宝石になって口からこぼれ出る祝福を与えられるんだ」 涙を失った経緯を話し終えた瞬に、俺はあまり役に立たないおとぎ話の例を持ち出した。 悪行の報いでこんなことになったわけではないんだから――と、俺はそんなつもりで言ったんだが、そんな話は瞬には何の慰めにもならなかっただろう。 瞬を襲った事態は、ペローの『宝石姫』というより、むしろ、シャミッソー の『影を売った男』だ。 何の価値もないものと信じて、悪魔に影を売った男の話。 どれほど貧しい人間でも、どれほど不運な人間でも――誰もが持っている影を失ったばかりに、汲めども尽きぬ大金を得たその男は、太陽の下で生きていくことができなくなる。 俺には信じ難いことだったが、瞬は――あの奇跡のように美しい涙を生むことのできる人間は――自分が生み出すものの価値に全く気付いていなかったらしい。 そして、その価値に気付いた時には、瞬はその素晴らしいものを永遠に失ってしまっていたんだ。 「こんな……こんな……僕、化け物だよ。こんなこと誰にも知られちゃいけないって思って、人前では絶対泣かないようにしてたのに、なのに、氷河が僕を泣かせるから……!」 ああ。それで瞬はずっと肩肘を張って、完璧な笑顔を装っていたのか。 俺は、瞬のその苦労を水の泡にしてしまったというわけだ。 「悪かった」 俺は素直に瞬に詫びた。 瞬がすぐに首を横に振って、切なげに俺を見詰めてくる。 「ご……ごめんなさい。氷河が悪いんじゃないのに……。僕に泣き虫でいてもいいって言ってくれたのは、氷河だけだったのに――」 その眼差し、その瞳は、俺の見慣れた――俺の記憶の中にある瞬の眼差しと瞳そのもの。 俺は、その瞳に見入って、くらりと軽い目眩いを覚えた。 何というか――そう、あれだ。 何年振りかで初恋の人に再会した時の衝撃や驚き。 二人の間に横たわる長い時間は その人を変えてしまっているだろうと思っていたのに、それが自然で当然だと思っていたのに、再会した人は以前と何ひとつ変わっていなかった。 そういう事態に遭遇したら、人はその奇跡に驚くだろう。 少なくとも、俺は驚いた。 その、奇跡そのものの瞬の瞳が俺を見上げ、見詰め、それがやがてゆっくりと伏せられる。 「氷河だけだったから……僕、今までずっと気を張っていたのが緩んで、油断して――きっと、氷河なら、僕がしちゃった馬鹿なことも許してくれるかもしれないって、僕 思っちゃったんだ。きっと、だから……」 瞬は、自分の言葉を言い訳じみていると感じているようだった。 その口調は遠慮がちで、どこか心許ない響きを帯びている。 そんなふうに考えなくてもいいのに。 瞬が自分を責める必要はないのに。 もちろん、俺は許す。 俺の大好きな瞬の綺麗な涙。 瞬が俺から その美しいものに触れる幸福を奪ってしまったとしても、だからといって、瞬にどんな罪があるというんだ。 瞬はただ強くなろうとしただけだ。 強くなろうとして――泣かないことが強さだと勘違いして、強くなる方法を少し間違えてしまっただけなんだ。 「俺や星矢たちに再会した時も、泣かないように気を張っていたのか」 俺が瞬の髪に手で触れて尋ねると、瞬は小さく頷いた。 触れることが“許し”の証だと思いたいのか、瞬は俺の手を払いのけようとはしなかった。 「みんなに会った時と、兄さんに会った時――僕はきっと泣いちゃうから、絶対泣くもんかって、この家に戻ってきた時からずっと緊張してたんだ。でも、氷河に会った時には――もしかしたら氷河なら僕を許してくれるのかもしれないって思って、だから、ほんとは泣きたかった。泣きそうになって、僕……」 それでも瞬は涙をこらえて、あの完璧な笑顔を俺に向けた。 なぜ俺は、気付いてやれなかったんだろう。 瞬のあの笑顔は、つらい修行を耐え抜いて故国に帰ってきた聖闘士としては自然すぎるほどに自然だったが、瞬の笑顔としては不自然きわまりないものだったのに。 俺の前で俯き語っている間にも、瞬の瞳から零れ落ちた涙は次から次に真珠になって、芝生の上に転がり落ち続けていた。 瞬はずっと我慢していたんだろう。 泣いてはならないのだと自分に言い聞かせ、気を張って。 瞬はどんなに苦しかったことか。 泣けないことのつらさは、誰より俺が知っている。 そのつらさ、苦しさは、俺には他人事で済ませられるものじゃなかった。 だが、どうすればこの呪い――これは祝福なんかじゃないだろう――は解けるのか。 俺には――おそらく瞬にも――その方策は一つとして思いつかなかった。 その時、俺たちに与えられた ただ一つの救いは――俺にすべてを話すことで少しは気持ちが楽になったのか、瞬の作り出す真珠の色が、寂しい青ではなくピンクや薔薇色を帯びた粒に変化し始めたことだけだった。 |