瞬を責める気はないが、現況が好ましいものでないことは事実だった。
この事態は何としても打破しなければならない――と、俺は思った。
それが異常なことだから――というんじゃない。
この事態には、現実的な不都合が多々あった。

まず第一に、この世には、瞬の涙より真珠という物体の方に価値を見い出す人間が多数存在するという問題がある。
そういう狂った価値観を持った奴等が瞬を見舞った災難を知ることになったら、彼等は十中八九、瞬の生み出す真珠を手に入れるためにあれこれと さもしいことを企てるに違いない。
瞬の涙でネックレスを作りたいなどと馬鹿なことを言い出しかねない城戸沙織なんて女も、この屋敷には存在する。
まあ、そういう欲深な奴等には秘密を隠し通すことで対処できるが、問題はそれだけじゃないんだ。

第二の問題。
それは、今後俺と瞬がめでたく昵懇の仲になることができた時に発生する。
俺と瞬が同じベッドで過ごすようになった時、感極まった瞬の目から真珠がぽろぽろ零れ落ちてきたら、そんなものは邪魔なことこの上ない――という問題だ。
豆の上に寝たお姫様の例を持ち出すまでもなく、シーツの上に真珠がごろごろ転がっていたら、瞬が背中を傷めることにもなりかねない。
愛し合う二人が その愛を確かめようとする時、その場にあっていいものは、愛情と、その愛を伝える言葉と、甘い溜め息、そして歓喜の涙くらいのもの。
真珠だの宝石だの、そんなものは不粋の極みというものだろう。
瞬を抱きしめて、この指や唇で瞬の涙をすくいとる――というのが俺の夢だったのに、それも叶わなくなる。

いつからそんなことが俺の夢になったんだという突っ込みはなしにしてくれ。
ともかく俺は、この尋常ならざる事態をどうにかしなければならないと思ったんだ。
呪いをかけられたお姫様の苦境を救うのは王子様と相場が決まっている。
つまり、この俺だ。

呪いをかけられたお姫様と、その呪いを解く王子様。
役者は揃っているんだ。
他に必要なのは、適切な舞台と出来のいいシナリオだけ。
そして、この場合は、どう考えても、シナリオライターの仕事は王子様が兼任しなければならない。
つまり、この俺が。

俺は、だから考えたんだ。
俺と瞬にふさわしいストーリーを。
不安と心細さにさいなまれている瞬の心を温め、安らげるようにするには どうしたらいいのか。
こういう場合、呪いを解くための最も一般的な手段と言えば、やはりあれだろう。
王子様のキス。
おとぎ話の王道だ。

俺の中に助平心がなかったとは言わないが、それは、おとぎ話に登場するすべての王子の胸中にあったものだろう。
それを露骨に表に出さず、完璧に隠し通すことができるからこそ、王子サマは王子サマたりえるんだ。

俺ももちろん、そんな気持ちはおくびにも出さなかった。
ひたすら瞬の身を案じている人間の顔をして(俺が心から瞬の身を案じているのは事実だぞ)、俺は瞬に提案したんだ。
「俺とキスしてみないか」
――と。

「えっ」
それは 誰もが認めるおとぎ話の王道的解決法だと思うんだが、それでも俺の提案に瞬は驚いたようだった。
瞬は、どうやら、自分が呪いをかけられたお姫様の立場にあるってことを自覚していなかったらしい。
俺は、だが、瞬の認識不足を責めることはせずに、俺のお姫様に言い募った。
「呪いをかけられたお姫様を救うのは王子様のキス――というのは常識だろう」
「で……でも……」

瞬は当然 躊躇した。
そう、瞬が躊躇するのは当然のことだ。
自分の置かれた立場を瞬が自覚していない――という問題以前に、俺は、俺たちがキスという行為に至る前にしておかなければならないことをしていなかったんだから。
つまり、俺が瞬を憎からず思っていることを瞬に伝えるという行為を。

俺は、呪いをかけられた哀れな人間を救いたくて そんなことを言い出したわけじゃない。
呪いをかけられたのが瞬だから、瞬をその呪いから救ってやりたいと、俺は思っているんだ。
俺を動かしているものは、義務感じゃなく瞬への好意だ。
そこのところを、俺はちゃんと瞬に伝えておかなければならなかった。

となれば、キスの前には、愛の告白が不可欠ということになる。
だから、俺は俺の気持ちを瞬に伝えた。
これ以上ないくらいに真剣な目をして。
「俺はガキの頃からずっとおまえが好きだった。今はもっと好きだ。おまえが苦しんでいるのなら、俺は その苦しみを取り除いてやりたい。おまえが以前のように綺麗な涙を零して泣けるようにしてやりたいんだ」
それは、俺の正直な気持ちだった。
嘘など一片も混じっていない。
ただ ほんの少し助平心が混じっているだけで。

「氷河……」
瞬は俺の言葉を言葉通りに受け取り、そして素直に感動したらしい。
瞬の瞳から、ほのかに薔薇色を帯びた真珠が一粒 零れ落ちる。
「あの……僕……」
今俺の前にいる瞬は、昔の瞬に戻ったように可愛い。
再会した時の そつのない微笑の記憶がまだ鮮明なだけに、俺の目には今の瞬の可愛らしさが際立って好ましく見える。

その可愛らしい瞬は、戸惑いを隠せない様子で上目使いに俺を見上げ、すぐに恥ずかしそうに その目を伏せてしまった。
そして、瞼を伏せたまま、幾度か瞬きを繰り返す。
その仕草は、俺の提案を受け入れるべきかどうかを迷っているというより、俺の提案をどういう言葉で受け入れるべきなかを考えあぐねているように見えた。
そうして、瞬が思いついた言葉は、
「た……試してみようか」
というものだったらしい。

瞬は、もちろん、俺の提案を断固として拒むこともできた。
だが、瞬は、そうしなかった。
俺が瞬を好ましく思っているように、瞬もまた俺を憎からず思っている――少なくとも、俺とキスすることを不愉快と感じない程度には瞬も俺を好きでいてくれる――ということを、瞬のその控えめな許諾の言葉で、俺は確信した。
それさえ確かめることができたら、俺が為すべきことは、ひたすら前進することだけだろう。
もちろん、慎重に、注意深く。

とりあえず、俺は、瞬の両の腕を 乱暴な印象を与えないように意識して優しく掴み、瞬の唇に触れるだけのキスをした。
ここは、幼い頃の俺と瞬が隠れんぼや駆けっこをして過ごした場所。
初夏の晴れた日の昼下がり。
雪のように白い花をつけている針槐ハリエンジュの木の下。
風は微風、陽射しはやわらかい。
長い空白の時間を経て再会した幼馴染みの恋人たちが初めてのキスを交わす場としては、文句なしのシチュエーションだったろう。

俺たちは俺たちの交わしたキスの効果を確認するために、瞬の身に悲しい出来事が降りかかってくるのを待つ必要はなかった。
幼い頃には兄のガードが強固だったし、その後は聖闘士になるためのつらい修行に心身を没入していた瞬――は、どう考えても これがファーストキス。
緊張と、恥じらいを含んだ戸惑いが、瞬の瞳を潤ませる。
そして、瞬は、その瞳から、とてもやわらかく明るい色の真珠を俺たちの間に出現させた。

「やっぱり駄目――」
瞬の落胆は、自分にかけられた呪いが解けなかったことに起因するものではないようだった。
むしろ、俺にキスしてもらった・・・・にも関わらず、自分にかけられた呪いが解けなかったことを申し訳なく思っているような――そんな目を、瞬は俺に向けてきた。
落胆より恥じらいの方が勝っている。
瞬のそんな気弱げな眼差しに力を得て、俺は――更に調子に乗った。

「やり方が まずかったのかもしれないぞ」
瞬に息つく間を与えず、二度目のキスをする。
今度は、俺は、瞬に動くことを許さないほどの力で強く瞬の身体を抱きしめ、その口中に舌を差し入れて瞬の舌を舐め、吸い、追いかけまわした。
瞬が瞳を見開き、幾度か瞬きをしているのがわかったが、俺があんまり長いこと、その遊戯を続けたせいで、瞬は自分の驚愕を維持し続けることができなくなったんだろう。
瞬はやがて目を閉じてしまった。
ほとんど押し倒さんばかりの勢いで前のめりになった俺に 本当に押し倒されてしまわないように、瞬の手が俺の背中にしがみついてくる。
それでも俺は、俺の唇で瞬の唇を覆い続けた。

短く見ても5分以上、俺は瞬の唇の自由を奪っていたと思う。
俺が瞬を解放した時には既に、瞬は幾粒かの真珠を生んでいた。
自分の瞳から零れ落ちたものに気付いた様子もなく、瞬はしばらく放心状態だったが。
「駄目か……すまん」
正直、俺は、それほど『すまん』と思っていたわけじゃない。
瞬も、嫌々受け入れているようじゃなかったし。
まあ、かなり戸惑い驚いてはいたようだったが――だから瞬は真珠を生じることになったんだろうが――人は悲しい時だけに涙を流すものじゃないからな。

「あ……あの……ううん……」
頬を染め顔を伏せてしまった瞬は、他に言うべき言葉を思いつかなかったらしく、そのまま黙り込んでしまった。
だが、その言葉になっていない声も仕草も瞬の周囲を包んでいる空気も、それらは決して沈鬱なものではなく――むしろ瞬は、自分の気持ちが浮き立っていることを表に出すまいと努めているようだった。

瞬の窮状につけこんで小ずるい真似をしてしまったと思いはしたが、俺は自分のしたことに特に後悔は覚えなかった。
優しい感触をした潔癖な瞬の唇。
それは、遅かれ早かれ俺のものになるものだったんだ。
後悔なんかしたら、それこそ無責任というものだろう。
俺は自分の行動に責任を持って――できれば永遠に責任を持つつもりで、それをしたんだ。

瞬にとっても、それは不本意なことではなかったんだろう。
瞬が作り出した真珠はどれも、いかにも温かく幸福そうな薔薇色をしていた。
言葉より正直で雄弁な真珠のその佇まいが、俺に悔やむことをさせなかった。

俺は泣いているのも可愛いが、恥じらっているのも可愛い。
もし、今の瞬が俺の前であの綺麗な涙を見せてくれたなら、その瞬間 俺は瞬への恋に落ちるだろう――瞬に再会した時から、俺はその時が訪れるのを今か今かと待っていた。
が、俺はいつのまにか その瞬間を通り過ぎてしまっていたらしい。
今の俺は既に、そして完全に瞬に恋をしていた。

「必ず――俺が必ず おまえの涙を取り戻してやる」
瞬への恋を自覚した俺は、俺と俺の瞬のために そう決意し、その決意を瞬に告げた。
俺の宣言に感動した瞬の瞳が、また薔薇色を帯びた真珠を生んだことは言うまでもない。






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