俺が意識を取り戻した時、俺は瞬に両手で抱きしめられていた。 太陽は既に空になく、シベリアの太陽と同程度に明るく暖かい月の光が、俺と瞬のいる場所を白く照らし包んでいる。 「瞬……?」 おそらく、気温は氷点下10度前後。 俺は瞬と二人きりで砂浜にいて、瞬は俺を強く抱きしめてくれている。 やはり天国というのは涼しい場所だったんだと、俺はぼんやり考えた。 俺の声と 俺を抱きしめていた瞬の腕から、少しだけ力が抜けた。 俺ががっかりしたのは、ほんの数秒。 その数秒の後に、瞬は、先刻より はるかに強い力で俺を抱きしめてきた。 「し……死んでるかと思った……! 氷河の身体、氷より冷たくて――島の温度は40度を越えてたのに、氷より冷たくて……!」 冷たい――? 俺は、自分の身体が、噴火直前の火山の火口の上に吊り下げられているように感じていたのに――。 俺と瞬の周囲には、真珠の粒が幾つも転がっていた。 それらは、俺がこれまでに見たことのあるどんな真珠より純粋な白色をしていて――天国ではなく、アンドロメダ島の砂浜の上に、その真珠たちは転がっていた。 瞬を救うつもりで俺がしたことは、逆に瞬を泣かせることになってしまったらしい。 多分、真昼のアンドロメダ島の気温に死の可能性を感じた俺は、自分の小宇宙で自分自身を凍りつかせ、自分の身体を、いわゆる仮死状態にしたんだろう。 俺を追いかけてアンドロメダ島にやってきた瞬は、そんな俺を見て、本当に死んでいるのではないかと恐れ、半分死体の俺をずっと抱きしめ温めていてくれたんだ。 「すまん……。俺は、おまえに涙を取り戻させてやろうと思って――」 それで逆に瞬に命を救われていたんじゃ、笑い話にもならない。 ああ、そうだ。 俺はガキの頃から、自分の好きなものしか目に入らない無鉄砲な子供だった。 無茶なことばかりして、瞬にフォローしてもらってばかりいた。 あの頃より6年分大人になったつもりでいたのに、結局俺は何ひとつ変わっていなかったらしい。 そして、瞬も――。 瞬も、子供の頃の瞬と同じだった。 無茶をした俺を責めもせず、俺の身を案じることに夢中で――。 俺は、あの頃からずっとそんな瞬が大好きだったんだ。 「いいの、もう。氷河にこんな危ないことさせられない。氷河の身に何かあったら、僕、生きていけない……!」 「瞬……」 瞬の瞳から、また二つ真珠の粒が零れ落ちる。 それは、少しだけ、周囲の純白の真珠より温かい色を帯びていた。 「いいの、もう。ごめんなさい、迷惑かけて心配かけて、ごめんなさい。僕は平気なの。涙が真珠になったって、僕は死んじゃうわけじゃないんだから。氷河だけなの。泣き虫の僕を好きって言ってくれたのは。氷河が僕のせいで傷付いたり、し……死んじゃったりしたら、僕、生きていけない。氷河が僕を嫌わずにいてくれるなら、僕、他には何も望まない。僕は今のままでいいの。氷河が生きていてくれさえすれば、それだけで――」 瞬が泣いている。 いや、泣いていない。 『泣く』という行為が『涙を流すこと』と同義なら、今の瞬は、厳密には『泣いている』とは言えないことになるだろう。 温かい涙の滴――それが人の心を癒すんだ。 高価な真珠より、巧みな言葉より、正直で素朴なあの温かさが。 氷のように冷たくなく、炎のように熱くもなく、人の体温と同じ温かさを持った、あの奇跡の滴が。 その奇跡を、瞬は失ってしまった――奪われてしまった。 瞬は、“本当に泣く”ことができずに苦しんでいる。 今の瞬はあの時の俺と同じ。マーマの死をこの目で見なければならなかった時の俺と同じ。 泣きたいときに泣けないと、人は苦しさが増すばかりなんだ。 「俺がおまえを嫌いになるなんてことがあるはずがないだろう。俺はいつまでもおまえが好きでいる。俺が生きている限り、ずっとだ」 かわいそうな俺の瞬。 あんなに綺麗だったものを失って、それでも我が身の不幸を嘆くより、他人の身を案じる優しさを失わない、強靭なその心――。 「氷河は危ないことしないで。この海には――きっと僕が涙を流しすぎたんだ。だからあんな……。あの声はきっと以前のアンドロメダの聖闘士の声なんかじゃなく、僕自身の声だったんだ。僕の弱さが生んだ声だったんだよ。もし そんなところに行って、氷河まで涙を奪われるようなことになったら、氷河までが泣けなくなってしまったら、僕は、そんなの耐えられない。氷河にだけは涙をなくしてほしくない。苦しんでほしくない――」 瞬は、俺と同じように、泣けないことの苦しみを知っている。 無理矢理 知らされてしまった。 そして、その苦しみを俺に味わってほしくないと願っている。 そんな瞬が健気で愛しくて、俺は瞬を強く抱きしめた。 それが――そんなことだけが、今の瞬が自分のために望む ただ一つのことだったらしい。 俺に嫌われないこと――そんな ささやかなことだけが。 瞬は俺に抱きしめられて、また一粒、綺麗な色の真珠を作った。 「おまえが苦しむ必要なんかない。これは真珠なんかじゃない。おまえの涙だ。俺にはわかる。おまえの綺麗な涙だ。大丈夫。俺にはわかる。大丈夫だ」 俺は――なぜ泣いているんだろう? 瞬が哀れだから? 瞬の優しさや強さが哀しいから? いや、多分俺は、瞬の苦しみを肩代わりするために――瞬の代わりに涙を流しているんだ。 瞬が涙を流すことができていた頃、瞬の涙が あれほど綺麗だったわけが、今初めてわかった。 瞬の涙はいつも自分以外の誰かのために流されていた。 瞬はいつも、俺たちが泣かずに済むように、俺たちの悲しさや苦しさを感じ取って、俺たちより先に、俺たちの代わりに泣いていたんだ。 おれたちが不幸で幸福だった、あの幼い頃からずっと。 人が流す涙には、あまりにも色々なものがこめられている。 優しさ、強さ、悲しみ、同情、時には自分自身への憤りや、他人や社会の理不尽に対する怒り。 あまりにも――あまりにも多くのものがこめられているから、人の涙は特定の色を持つことができずに透き通っているんだろう。 俺の涙が瞬の瞼に落ち、瞬の涙と混じり合う。 そうして、その時、白い球体になりかけていた瞬の涙は、透き通った滴のまま瞬の頬に零れ、その温かさを保ったまま、きらめきながら砂の上に落ちた。 気付くと、俺たちの周りに散らばっていた真珠の粒はすべて、瞬が6年間を過ごしたアンドロメダ島の砂に吸い込まれたように、跡形もなく消えてしまっていた。 |