余は、余の為そうとしていることを『善』だと信じている。
その善を為すための肉体を要し、人間のうちにその器を求める。
その器は運命さだめによって決められていて、運命の三女神モイライが選ぶのは、その時 人の世で最も清らかな心を持った者。
あの冷酷な女神たちが 余の好みに配慮しているとは思えないが、余の器として選ばれる人間は いつも若く美しかった。
健康でしなやかな肢体を持ち、その心は澄んでいる。
そして、その者たちは、澄み清らかなその心の故に、いつも、どの時代ででも、人の世の汚れを憂い、悲しみに満ちていた。
瞬もそれは同じだった――が。

これまでに余の器として選ばれた者たちとは異なり、瞬は戦いの中に身を置く者だった。
戦いの外で戦いを嘆く者ではなく、戦いの中で戦いを嘆く者。
最初、余は、そのような者が清らかであり得るのかと不審に思った。
もちろん瞬は、かつて余の器として選ばれた者たちと同様に若く美しかったが、運命の女神たちの運命の糸を紡ぐ手が狂うこともあるだろう。
余は、そう考えたのだ。

瞬は、これまでの清らかな余の器たちとは異なり、その心の内に大きな迷いを養っていた。
迷い――それは、純粋な者が備えていてよいものではない。
これが本当に余の器として選ばれた人間なのかと、余は深く困惑した。

余は、戦っている者たちの中に清らかな者がいないと言うつもりはない。
戦う者たちは戦わぬ者たちより汚れていると言うつもりもない。
理想、名誉、忠誠心――我欲以外のものに一途な戦士や兵士は、確かに存在する。
だが、それらの者たちは他を見ようとしないだけの愚か者でもあるだろう。

万人が共に抱ける理想などない。
すべての時代に共通した名誉も存在しない。
彼が忠誠心を抱く者が、すべての人間にとって偉大な者であるはずもない。
自らの信奉するものを普遍と信じ一途に戦っている者たちは、まず例外なく思慮に欠けている。

余は、馬鹿は嫌いだ。
愚かな者は、汚らわしい人間たちの中でも最も醜い。
そういう者たちを、余は心から嫌悪する。

人の世には二種類の人間が存在すると思う。
一つは、己れの罪や汚れを自覚していながら、死は悪だと思い込まされ、生を余儀なくされている者。
もう一つは、そもそも己れの罪にも汚れにも気付いておらず、自分には生きる権利があると信じている、おめでたい者たちだ。
戦いの中に身を置く者たちは、後者であることが圧倒的に多い。
彼等は自らの信じる『善』のために戦っている者たちだから。
瞬が第二の種類の人間であったなら――余は、そんな者を余の器として受け入れることは絶対にできなかったであろう。

余は、だが、まもなく理解した。
運命の女神たちは過ちを犯してなどいなかったことを。
戦いの中にあっては、その迷いこそが清らかなのだ。
戦いの外で、戦いを厭うことは、誰にでもできる。
清らかな人間にはもちろん、清らかでない人間にも。
戦いの外で戦いを非難することは、気楽なことなのだ。
そういった者たちは、自分は戦いという悪に染まっていないという根拠のない自信を抱き、傲慢に振舞う。

しかし、瞬は――。
瞬は、生まれたばかりの赤子のように、自己と他者を異なるものと認識できない赤子のように、自らを『悪』だと感じている――信じてさえいる。
アテナの掲げる正義を信じたいが故にそう・・ではないと、自分の為していることは善であり正義であると自身を納得させようとし、だが、瞬は“賢明”だから自らを騙し切れないのだ。
そう、この時代、余の器として選ばれた瞬は、余の宿敵アテナに従い、アテナのために戦う者だった。

これまでの者たちとは趣の違う余の器。
瞬の清らかさがどういうものであるかを解した余は、瞬が余の器となる今生でなら 今度こそ、アテナとの戦いに決着をつけることができるのではないかと期待した。

余が欲するものは、人間の・・・ために・・・すべての人間を滅ぼそうとする破壊神。
そして、人間たちの消えた場所に 完璧に清浄な世界を再生する創造神。
まさに神――人間にとっての絶対神となることを、余は瞬に期待しているのだ。
瞬ならばそういうものになることができるだろうと、余は思った。
アテナの聖闘士として戦い、戦うことに苦しみ、戦うことを悲しみ続けてきた瞬になら。






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