ハーデスはいったい いつ人の世界にその力を及ぼし始めるのか――今日か、明日か、それとも彼は既に密やかにその活動を開始しているのか――。
氷河がアテナ神殿に呼ばれたのは、“死”との戦いの予感が日毎に強まる ある日――春の日のことだった。
自分をアテナ神殿に呼びつけたのは教皇か、あるいは黄金聖闘士の誰かだろうと氷河は思っていたのだが、アテナ神殿のアテナの御座のある広間で氷河を迎えたのは、彼の女神その人だった――アテナだけだった。

訝る氷河に、今生のアテナ――清らかな少女の姿をした女神――が ゆっくりと口を開く。
今生のアテナは、彼女の聖闘士たちが彼女の前に跪くことを好まない。
氷河は、アテナの御座の前に立ったまま、彼女の話を聞くことになった。

「あなたも知っての通り、私はこれまでに幾度もハーデスとの聖戦を経験してきました。そして、そのたびに悲しい思いをしてきた。今の私の身体は人間のもので、過去の聖戦の記憶もそれほど鮮明なわけではないのだけれど、だからこそ、悲しい思いをした印象は私の中に強く深く残っています」
アテナがそんな話を始めた意図が理解できず、氷河は彼女に対して、沈黙で答えることしかできなかった。
まだ10代の少女の姿、しかし、その態度と声音には、常人には持ち得ない威厳と慈愛がたたえられている。

「私と私の聖闘士たちは、これまでかろうじてハーデスから人の世を守ることができてきたわ。でも、そのために払った犠牲も大きかった。私はこれまでの聖戦でいつも、私の聖闘士たちを幾人も失い、そして、ハーデスに その依り代として選ばれた者を失ってきた。私の健気な聖闘士たちはもちろん、ハーデスの依り代にされた者も、ハーデスに望まれさえしなければ、最も価値ある人間の一人だったのに」
ハーデスの依り代として選ばれた者は、ハーデスの手先としてアテナが守ろうとするものを滅ぼそうとした者のはずである。
そんな者の死を惜しみ、あまつさえ、その者を『最も価値ある人間』と評するアテナに、氷河は、違和感を帯びた疑いのようなものを抱いた。
「俺は、アテナは人間に対して平等主義なのだとばかり思っていました」
自らの内に生まれた疑念を、氷河が率直に言葉にすると、アテナは苦笑して 首を横に振った。

「私はそんなものではないわよ。もちろん、人間の命の重さと彼等の持つ可能性の大きさは皆同じだとは思っているけれど。ハーデスが彼の器に選ぶ人間は、その時代で最も清らかな魂を持つ者と定められているの。つまり、私が、人間にこうあってほしいと望む人間そのもの。その人を失うことは、私にとってはとても悲しくつらいことだったわ。これまでいつも――いつの時代にも、私はその清らかな人に 敵として出会うことしかできなかったのだけれど」

アテナの瞳には、その言葉通りの深い悲しみと、そして、いつの時にも彼女の聖闘士たちを奮い立たせる希望の光が、常にも増して強い輝きをもってたたえられていた。
そんな彼女の瞳を認めた氷河は、何か――かつての聖戦とは違う何らかの希望が、今生では見付かったのかもしれないと感じたのである。
彼の推察は当たっていたらしい。
アテナが悲しみを振り切るように その顔をあげ、白鳥座の聖闘士を見詰める。

「今生でハーデスの器になる者がわかったの。ハーデスのしもべとして その者を見守っていた人間がいたのだけれど、彼女はハーデスに操られている自分の行動に疑いを持って――ハーデスを裏切り、私にその者の居場所を教えてくれました」
「そんな奴の言葉が信じられるんですか」
「信じられると思うわ。彼女はハーデスに恋人を殺されたそうなの。『今 生きている人間としての幸福を奪われたことを、死後の永遠の優越のために忘れることはできない』と彼女は言っていた。私に、その者の居場所を教えて、私に庇護を求めることもなく この聖域を立ち去りました」
「……」

本音を言えば、氷河は、そんな女の密告など ますます信じられないと思ったのである。
自分なら、恋人の命を奪われたくらいのことでアテナに背いたりすることはないと、彼は確信していた。
――が、すぐに、その仮定文がおかしいことに気付く。
アテナは決してそんなことはしないのだ。
神というには あまりに人間的すぎる彼の女神は、彼女の聖闘士が愛する者を、たとえ正義の実現のためにでも消し去るようなことはしないだろう。
そうしなければならない事態に直面することがあれば、彼女は、その事態を回避するための他の方策を模索する。
聖域の女神アテナは、何よりもまず生きている・・・・・人間の幸福を守るために戦っているのだ。
アテナは それをしか守れない――とも言えた。
死後の世界ではハーデスが唯一の絶対者となる――。

だが、アテナが守ろうとしているものは、それほど価値のあるものなのだ。
死後の永遠の安逸より、今――生きている今、幸福であることを、人は願う。
命、感情、五感――それらのものがあるからこそ、人は幸福を実感することができるのである。
それらのものを失った死後の世界で、人が幸福を幸福と認識することができるかどうかさえ怪しい。
それほど価値のあるもののためなら、人はどんなことでもするだろう。
それを奪われたなら、同胞(人間)を裏切って死後の世界の絶対者に仕えていた者でも、冷徹な計算ができなくなるのかもしれない。
否、二重の意味での裏切り者は、自らの幸福を失って初めて、冷静に現実を見ることをし、そして悟ったのだろう。
ハーデスがその忠誠の代償として与えようと約束した死後の特権は、実は毫ほどの価値もないものなのだということを。
となれば、彼女のもたらした情報は事実である可能性が高い。

「アテナ、では……」
その者を葬り去る役目を与えるために、彼女は白鳥座の聖闘士をこの場に呼んだのだろうか――? と、氷河は思った。
というより、氷河には他の理由が思いつかなかったのである。残念なことに。
確かに、その“仕事”ならば、一介の青銅聖闘士にも可能だろう。
ハーデスとの合一を果たしていない冥王の器は、善良な――極めて善良な―― 一人の人間にすぎないのだから。

氷河の誤解に気付いて、アテナが僅かに困惑したように左右に首を振る。
「そんなことは言わないわ。言ったでしょう。その人は私にとって、人間の理想なのだと。私は彼を失いたくないの。私は、その人がハーデスの手に落ちないよう、可能な限りの手を尽くすつもりよ」
アテナの言葉に、氷河はほっと安堵の息をついたのである。
アテナが、人の世の存続のために一人の人間の命と幸福を犠牲にすることを当然と考えるような女神ではないことを知って、彼は心を安んじた。

「なんとかして、その者をハーデスの器になり得ない者にしなければならないわ。そうすることで、私たちはハーデスの復活を食いとめることができる。それを為し得れば、次の聖戦まで人間と私たちは数百年間の猶予を手に入れることにもなるのよ」
「なぜ俺にその役目がまわってきたんですか」
“現世で最も清らかな者”を説得するのなら、もっと歳のいった、もっと口のうまい者を遣わした方が有効だろう。
白鳥座の聖闘士は人を説得する術に長けている男とは言い難く、それは氷河自身も自覚していた。

「それはまあ、人を一人誘惑しようというのだから、誘惑者は美しい方がいいでしょう」
「アテナ」
こんな時にそんな軽口を叩くのは、豪胆というより不謹慎である。
「冗談よ。半分は」
アテナの冗談は笑えない。
半分は本気なのかと、氷河は、外見だけは彼より年若い少女の姿をしたアテナに渋い顔を向けた。

「ハーデスに選ばれた者は今、神聖ローマ帝国のチューリンゲンにいるそうなの。あなたなら土地勘もあるでしょうし、あの辺りの人間の人となりにも通じているでしょう」
アテナが口にした名は、氷河の亡くなった母親が北の国に嫁ぐ前に少女期を過ごした場所の名だった。
氷河が故郷を出て、聖域に来る前に、しばしの時を過ごした土地。
亡き母の思い出に浸り、亡き母の思い出を振り切るために、そこで1年間ほどを過ごしてから、氷河は聖域にやってきたのだ。

アテナの説明に一応の納得を見た氷河は、自身に課された重大な任務に少しく緊張して、アテナに再び問うた。
この任務において最も重要なことを。
「どうすれば、その者をハーデスの器たり得なくすることができるんですか?」
「わからないわ」
「……」

“最も重要なこと”に、しかし、アテナは答えを与えてくれなかった。
戦いの女神であると同時に知恵の女神でもあるアテナが、淡々とした口調で『わからない』と言う。
氷河は、だが、ここで彼女が彼女の部下に明確な指示を与えないことこそが、アテナの“答え”なのではないかと思ったのである。

ハーデスがその依り代として選ぶのは、その時代の人間界に存在する最も清らかな人間だと言われている。
“清らかである”という特性を失えば、その者はハーデスの依り代となる資格を失うことになるのだ。
ハーデスの降臨を妨げようとしたら、その使命を帯びた者は ハーデスの器となるはずの人間をハーデスが支配する前に“清らか”でなくしてしまうしかないだろうと、氷河は思った。
そうしてハーデスが人の世に降臨できなくなれば、死の国の王は、次にその資格を有した人間が この地上に現われる時まで、肉体を持った存在として人間界に現在することができなくなる。
当然、それまでの数百年間、人間と人間の生きる世界は、少なくとも冥界の王によって滅ぼされることはなくなるのだ。

だからこそ、アテナは、氷河が為すべきことを明言しなかったのだろう。
それは、アテナには“命じたくないこと”なのだ。
清らかな人間を――現世で最も清らかな者を――『汚せ』などという命令を、アテナが口にできるわけがない。
清らかな人間を汚す行為が“よいこと”であるはずがないのだ。

世界を守るために、悪事を為す――。
人間ならば『正しい目的の実現のためには手段を選んでいられない』と割り切るところだろうが、アテナは神であり、この聖域を統べるものである。
すべての聖闘士の統率者であるアテナが自らの掲げる正義にもとる言動を為せば、彼女は彼女の聖闘士たちの信頼を失うことになるだろう。
そして、彼女の聖闘士たちは自らの戦いに矛盾を見ることになる。
アテナは決して それ・・を彼女の聖闘士に命じることはできない。

しかし、彼女は、人間たちの生きる世界の存続と平和を守る者としての責任と義務を負っており、それ故に、その悪事を為さなければならないのだ。
彼女は生きている・・・・・人間の幸福を(幸福の可能性を)守るために人間界に在る。
何よりもまず、“生きている”ことを重要と考える。
“現世で最も清らかな者”がハーデスの手先となり“生きている人間”と呼べないものになるくらいなら、多少汚れても――と、彼女は考えているのかもしれなかった。

(本当にそうだろうか……?)
それで一応理屈は通るが、はたして あのアテナがそんな中途半端な考え方をするだろうか。
氷河は、自身の推察に確信を持つことはできなかった。
あるいは“現世で最も清らかな者”を汚すこと以外に、彼をハーデスの魂の器とせずに済む道があって、アテナはその解決方法を人間である氷河に見付けてほしいと望んでいるのかもしれない。
自分が重い任務を背負い込んだことを、氷河はアテナ神殿を出てから思い知ることになった。






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