ともあれ、その日のうちに、氷河はチューリンゲンに向かうために聖域を出た。
『瞬』という名の、清らかで不幸な者のいる場所に赴くために。
「現世で最も清らかな人間とやらに会ったら、おまえ、どうするつもりなんだ?」
アテナに重大事の対応を任された仲間を見送るために 聖域の外れまで出向いてきてくれた星矢と紫龍に、
「わからん」
という、少々投げやりな別れの挨拶を告げて。
投げやりではあったかもしれないが、それは正直な答えでもあった。
氷河には本当に、自分がアテナに何を期待されているのかがわからなかったのだ。

聖域からチューリンゲンまで、聖闘士の足で2日。
その間ずっと、氷河は考え続けることになった。
人が“清らかである”ということはどういうことなのか。
人が“汚れる”ということはどういうことなのか。
そして、なぜ その瞬という名の少年が、ハーデスの依り代として選ばれたのか――を。

ハーデスの魂の器として選ばれる人間は、人の世では被支配者層に属する非力な人間であることが多いらしい。
支配者・権力者の立場に立つことは、天地がひっくり返ってもありえないような。
では、力を持たず野心を抱くこともなく、無為に日々を耐えているだけの人間が、そういう生き方をしている人間こそが“清らか”なのだろうか。
氷河には、そう断じてしまうことはできなかった。
もしそうであるなら、ハーデスは、たとえば禁治産と認められるような人間を彼の魂の器に選んでいるはずだろう。

たとえば、聖域にいるアテナの聖闘士たちは、誰もが正義と人々の幸福と安寧のために戦っている。
彼等に私欲はない。
氷河が知る限り、アテナの聖闘士たちは、あらゆる人間の中で最も私心なく純粋な理想に燃えた者たちだった。
だが、ハーデスはそういう者たちを自身の器として選んだことはない。――今のところ、氷河は過去にそういうことがあったという話は聞いたことがなかった。
となれば、“正義を行なうこと”と“清らかであること”は違うものだということになる。

いくら考えても正答と思える答えに行き着くことができなかった氷河は、もしかしたらハーデスの望む“清らか”とは もっと下世話なことなのではないかと、あらぬ方向に考えを向けることになったのである。
たとえば、それが童貞であることだとしたらどうか。
昨今 欧州を席巻しているキリスト教なる堅苦しい教えは、肉欲を人間を堕落させる悪の源とし、信者が処女童貞であることに大きな価値を認めていると聞く。

アテナは、誘惑者は美しい方がいいというようなことを言っていた。
氷河は、彼女の言う“誘惑”を『“現世で最も清らかな者”を、ハーデスではなく聖域の女神の掲げる理想に賛同させろ』という意味に解していたのだが、そうとも限らないのかもしれない。
そう考えかけて、だが、氷河は早々にその考えを放棄した。

童貞の聖闘士も探せばいるはずである。
たとえば天馬座の聖闘士あたりは、どう考えても色気より食い気を第一の生活信条に掲げている。
しかし、星矢が“清らか”な人間かと言われると、氷河は首をかしげざるを得なかった。
決して悪い男ではないのだが、あの短気ですぐかっとなる直情的な星矢を“清らか”と感じる者は、聖域の内外を問わず まずいないだろう。

となれば、ハーデスが彼の器に望む清らかさは、少なくとも肉体的な問題ではない。
そして、正義を行なっていることでもない。
では、いったい“清らか”とはどういうことなのか――。

その答えに至ることができぬまま、氷河は目的地に着いてしまった――丸2日間考え続けても、氷河は答えに至ることができなかった。
その答えに至ることができないということは、俺自身が清らかな人間ではないということなのだろう――そんなふうに自嘲しながら、氷河は問題の村に入ったのである。

現世で最も清らかな人間――がいるというその村は、ごく小さな村だった。
集落を形成している村人の数は200を出ないだろう。
もともと険しい山や深い森が多く、方々にある集落は自然の要害に隔てられ孤立した格好になっていることの多い地方なのだ。
当然 よそ者は目立つし、そういった者に対する住人たちの警戒心も強い。
氷河が以前この国で1年ほどを過ごした時には、その村には彼の亡き母を知る人が幾人もいて、村の生活にまだ溶け込みやすかったのだが、はたしてこの村ではどうか。
氷河は、その点に関しては、あまり期待してはいなかった。
彼等がよそ者を容易に受け入れることをしないのは、小さな共同体を営む人々が自らの生活を守るための用心であり知恵でもある。
無理にその中に溶け込もうとはせず、よそ者はよそ者として軋轢を生まぬよう振舞うのが、外来者の知恵というものだろう。

村を見下ろす北側の山の頂に真新しい城。
その裾野にある狭い平地に簡素な家が50戸ほど。
そこは農業と牧畜で生計を立てている村のようだった。
役場や集会所の類もなく、雑貨屋と酒場を兼ねた村で唯一の店が、その役目を担っているらしい。
よそ者がこの村を訪れることは、やはり珍しいのだろう。
氷河がその店の中に入っていくと、店内の円卓で昼の休憩中をとっていたらしい一組の中年の男女と 店主らしき壮年の男が 遠慮のない視線を氷河に向けてきた。

自己紹介などする気もなかった氷河が「あの城は領主の居城か」と尋ねると、店の主人から「わからない」という、実にあやふやな答えが返ってくる。
店内に一つしかない円卓についていた女が、「いつのまにかできてたんだよ」と、よそ者の正体を探るような目をして、氷河に教えてくれた。
領主の許しもなく あんなものが建てられるはずがないのだから領主のものなのだろうとは思うが、領主が城を建てたり修復したりする時には領民を動員するのが慣例となっている。あの城の築城の際にはそれもなかったので、皆が不思議に思っている――ということだった。
「領主様は、この小さな村が自分の領内にあることを忘れていただけかもしれないがな」
と、女の連れが自嘲気味に言う。
ここは誰からも忘れられた村――この村の住人たちは、そう考えているようだった。

こういった小さな村の住人が 外来者を排斥しようとするのは、彼等の内に卑屈の思いがあるからである。
だからこそ彼等は、せめて自分のテリトリーの中では自身の優越を守るために、よそ者を自分たちとは違うものとして区別――差別する。
その卑屈で傲慢な者たちに、氷河は用心深く 彼の用件を切り出した。
「あの城に、瞬という名の者がいるはずなんだが」

途端に、それまで明確に氷河に対して警戒心を抱いていた村人の態度が和らぐ。
氷河が『瞬』という名を口にしただけのことで、本当に目に見えて彼等の表情と態度は変化した。
「あんたは 瞬を迎えにきた人かね? ああ、そりゃつんけんして悪かったな。この村には滅多に外から人が来ないから、よそ者には用心する癖がついてるんだよ。それにまあ、これだけ綺麗で若い男が 男に歓迎されるわけがないやな。あんた、どこでも嫌われ者だろ?」
世辞なのか本音なのかの判断には迷うところだったが、氷河はとりあえず村の男の言葉を素朴な賞讃と受け取ることにした。

「いやあ、よかった、よかった。瞬は、どこの誰とも知れぬ奴等にこの村に連れてこられたあげく、放っぽりだされて、途方に暮れていたんだ」
「で、瞬はやっぱりあのお城に住むことになるのかね? ほんとは どこぞの王子様か何かだったりするんじゃないのかい?」
雑貨屋の主人からも、男の連れの女からも、瞬の名を出したよそ者を警戒する気持ちは既に消えてしまっているらしい。
彼等の口は突然なめらかになり、彼等は手の平を返すように氷河に気安い口をきき始めた。

とはいえ、彼等も瞬が何者なのかはほとんど知らないらしく、その説明は要領を得たものにはならなかった。
彼等の話を聞いて氷河が知り得た瞬に関する情報はごく僅か。
『瞬』は、2ヶ月前、二人連れの男女に連れられて この村にやってきた。
『瞬』は歳の頃14か15の男子で、少女と見紛うほどに可愛らしい面立ちをしている。
そして、『瞬』の美しさは、氷河のそれとは違って、同性にも敵意を抱かれない種類のものであるらしく、よそ者への警戒心の強いこの村の住人たちは、老若男女を問わず、よそ者である瞬に対して尋常でない好意を抱いている。
雑貨屋にいた者たちのお喋りから氷河が得ることのできた情報は、それだけだった。






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