村のはずれに建つ、煉瓦と木でできた小さな家で、瞬は暮らしていた。
扉が開け放たれていたので、氷河は、挨拶もせずにその家の中に足を踏み入れたのである。
入ってすぐの部屋に古い木のテーブルがあり、その上には幾種類もの草が並べられていた。
食用とは思えなかったので怪訝に思っていると、
「怪我でもしたの?」
と、ふいに扉の方から子供の声が響いてくる。
氷河が振り返ると、入り口に、野菜とは思えない草の入った籠を抱えた子供――少女――少年?――が立っていた。
逆光で顔は見えなかったが、手足の細い子供だということだけは何とか見てとれた。

「あれ?」
その子供が、首をかしげる。
「外から来た人?」
家の中にいる男がよそ者だということに気付いても、その声に警戒した響きが混じることはなかった。
声と同じく警戒心のない様子で家の中に入ってきた子供の白い貌を、窓から入る陽光が浮かびあがらせる。
氷河は、その顔――というより表情を見て、息を飲むことになったのである。

村にやってきたばかりのよそ者であるにも関わらず、この家の住人が 同性にも反感を抱かれず、嫌われもしない理由は、氷河にもすぐにわかった。
男というより子供、少年というより無性の人間。
冥府の王に選ばれた人間は、そういう風情をしていた。
清らかさというものがどういうものであるのかを理解しかねていたはずだった氷河が、瞬を見た途端に、『これは清らかな人間だ』と疑いもなく信じることができた。

瞳が異様に澄んでいる。
それは、人を憎んだり嫌ったりしたことがないような目だった。
では、“清らか”であるということは、人間らしい感情を持っていないということなのか。
これを人並みの人間にすればいいのか、この澄んだ目を欲や憎悪で濁らせればいいのか、そんなことが可能なのか、そんなことをしてしまっていいのか――。
自身に課せられた務めを思うと、氷河はひどく沈鬱な気持ちになったのである。

「君が瞬?」
「そうですが」
余計なことは言いたくなかったので、氷河は用件だけを瞬に告げた。
「俺は聖域から来た聖闘士だ。君に会うためにアテナの命でここに来た」
「聖域……聖闘士?」
ただの噂話としてでも、瞬はこれまでにその単語を口にしたことがあったのかどうか――。
まるで初めて言葉を話そうとしている幼児がそうするようにぎこちなく、瞬は、氷河が口にした二つの言葉を“音”にした。

氷河は聖衣を身につけてはいなかった。
麻のチュニックとサンダル、ごく普通の旅装である。
少なくとも今の氷河は、聖域の聖闘士であるという自己申告を信じてもらえるだけのものを、その外見には備えていなかった。
瞬が訝る様子を見せたのは、当然のことだったろう。
アテナとアテナの聖闘士たちの戦いは、外の人間には知られずに始まり終わるのが常だったので、そもそも聖域や聖闘士の存在自体を疑っている者が、“人間界”には相当数いるに違いないのだ。

しかし、瞬が怪訝な様子を見せたのは、氷河の自己申告に不審を抱いたからではなかったらしかった。
首をかしげながら、瞬が家の中に入ってくる。
「いったい何が起こってるの。この頃、僕の周りでは変なことばかり起こる」
「変なこと?」
「ええ、本当に変なことばかり」
テーブルの上に並べられていた草を脇に寄せ、手にしていた籠を空いた場所に置くと、瞬は初めてまともに氷河の方に向き直った。
氷河がそうだったように、瞬もまた氷河を見て息を飲む。

「……何だ?」
「いえ、ごめんなさい。あなたが とても綺麗な目をしているので、びっくりして」
二人して同じことに驚いていたのかと、氷河は思わず苦笑してしまったのである。
つられたように瞬も笑顔を作る。
瞬は、瞳が澄んでいるだけでなく、顔の造作から印象までが“可愛い”のだということに遅ればせながら気付いた氷河は、そんなことに気付いている自分に内心で舌打ちをした。
今は、そんなのんきなことに気付いている場合ではないのだ。

「変なこととは?」
「最初はあの黒い服の女の人。次は聖域から来た聖闘士だなんて――」
瞬は、よそ者に対する警戒心というものを本当に全く抱いていないらしい。
瞬自身がこの村では新参者だということを抜きにしても――普通は、だからこそ、見知らぬ相手を警戒してしかるべきだと思うのに。

新たな よそ者が自分に害を為すためにやってきた人間かもしれないなどということは全く考えていない様子で、氷河に椅子を勧めると、瞬は、テーブルの上に並べられている草の束を指して、
「ごめんなさい」
と言い、自身ももう一つの椅子に腰をおろした。
ごく自然に、やわらかい動作で。

「僕、2ヶ月前までは、もう少し北の方にある村にいたんです。もっと険しい山で囲まれた、ずっと奥の村。僕は捨て子で、両親が誰なのかも知らずにいたんですが、そこに、ある日 黒いドレスを着た女の人がやってきて――僕が本当はハインシュタインとかいう名の貴族の家の子供で、生まれてすぐに賊にさらわれてしまったんだと教えてくれたんです。両親は既に亡くなってるけど、両親の望みだったから、本当の家に戻ってくれと言われて――村の北側の山にお城があるでしょう? あのお城が僕の生まれたお城だと言われました」
その城に連れていかれて、そして、瞬は違和感を覚えたのだという。
懐かしさを感じないのは仕方のないこととしても、それだけではなく――。

「でも変でしょう。あのお城は、まるでつい昨日建てられたみたいに新しくて――。何かおかしいって疑ってたら、彼女と一緒にいた男の人が ある時急に僕に逃げろと言ってきたの。あの人は僕に、聖域に行けと言った。そんなことを言われても、僕は聖域がどこにあるのかさえ知らないし、それでどうしたものかと迷っていたら、突然、金色の目をした人が現われて、その人を殺してしまった。あの女の人は殺されてしまった人が好きだったらしくて、とてもショックを受けて、僕をあのお城に残してどこかに消えてしまったんです。『いずれ この城に迎えが来るだろうけど、それが誰になるかはわからない。私にはもう何もできそうにない』と言い残して」

「……」
彼女は、そして、その足で聖域に赴き、ハーデスに選ばれた者がここにいることをアテナに知らせたのだろう。
その後、聖域を出た彼女は、おそらくハーデスの手の者に裏切り者として葬り去られたに違いない――と、氷河は察していた。






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