「お城にひとり残されて――お部屋や家具は上等のものだったけど、あそこは一人でいるのは怖いところだったの。村に下りてきて事情を聞いたら、騙されてさらわれてきたんじゃないかって言われた。あのお城は僕の両親が暮らしてた城じゃなくて、つい最近忽然と現われたものだって教えられて――。あのお城が僕とは縁もゆかりもない人のお城なのなら、僕は我が物顔であのお城にいるわけにはいかないでしょう? 途方に暮れていたら、村の人たちが同情してくれて、空き家になっていたこの家を僕に貸してくれたの。僕、前にいた村では薬草の目利きをして暮らしていたから、ここでも似たようなことをして、あと、村の子供たちの世話とかをして、食べ物を分けてもらってます」

「この村の住人は そんな親切な奴等には見えなかったが」
決して瞬の言を疑ったからではなく、きわめて正直かつ率直な意見として、氷河はそう呟いた。
瞬が大きく首を横に振って、氷河の認識に異を唱える。
「そんなことありません。たった一人で見知らぬ場所に放り出された僕に、村の人たちは食べ物だけじゃなく食器や着替えやローソクに焚き木まで分けてくれた。おかげで、この家も、最初は埃だらけだったけど、あっという間に普通に暮らしていけるようになって――ここは、誰のものなのかわからない立派なお城より ずっと居心地がいいです」
「そうか……」

この村自体、それほど豊かな村とは思えない。
この村の住人が、他の村の者たちに比べて、特別慈悲心に満ちている人間だとも、氷河には思うことができなかった。
ありふれた貧しい村、よそ者に対して排他的な、この地方としてはごく普通のありふれた人々。
瞬の話を聞いていると、この村には親切で慈悲深い人間しかいないように思えるが、そんなはずはない。

この村の者たちが特別に優しいわけではなく、瞬が――瞬の目が人々をそういう人間にしてしまうのだと、根拠はなかったが、氷河は思った――感じた。
この綺麗な瞳の持ち主に親切にできない者は人非人だと思わせるような力を、人の心を優しいものに変える力を、瞬の瞳は持っている。

「あの女の人はとても思い詰めた様子だったから、勝手にここを離れるのも悪いような気がして――だから僕はここで、あの女の人が言っていた迎えを待つことにしたんです。そうしたら、今度はあなたがやってきた。聖域の聖闘士が本当にいるなんて、僕――」
「氷河だ、俺の名は」
「氷河……」
その名を唇に載せてから、瞬は深くゆっくりと頷いた。
「僕はみんなの親切のおかげで何とか生きていられる貧しい孤児で、少しはみんなのためになることをしながら生きていけたらいいと願ってるけど、そんなことさえなかなかできずにいる、ただの無力な子供です。それが、どうしてこんなふうに次から次に――」

『みんなの親切のおかげで』と瞬は言うが、親に捨てられ孤児として過ごしてきた自らの境遇を思えば、人間が優しく親切なだけの生き物ではないことくらい、瞬もわかっているはずである。
にも関わらず、瞬の瞳は澄んでいた。
言葉を交わす前に、その生い立ちや考えを聞く前に、氷河はその姿を見ただけで、瞬を“清らか”な人間だと感じた。
おそらく、そのあたりに、瞬がハーデスに選ばれた理由があるに違いない――と氷河は思った。

「おまえはとても綺麗だし、その心が清らかなのも事実なんだろう。その姿なら、聖人セイントをたぶらかすこともできるに違いないのに、その姿を利用しようともせずに、これまで生きてきたということだけでも、おまえが詰まらぬ欲を持たない人間なのだということはわかる」
聖闘士セイントをたぶらかす? 僕が?」
言葉尻を捉えて“セイント”をからかおうとしたわけではなく、瞬は単に氷河の発言の内容を正しく理解しようと努めて、そう反問することになったのだろう。
瞬の瞳に からかいの色はなく、その表情は至って真面目なものだった。
そんなことを瞬が企んでいるはずがないことはわかりきっているのに、氷河は今すぐにでも瞬にたぶらかされてしまいたいと、“セイント”にあるまじき思いに囚われたのである。
少し目眩いがした。

ハーデスが選んだ清らかな人間を汚すことによって、彼をハーデスの器たり得ないものにできるのなら、これほど簡単な聖戦の回避方法はないと思う。
しかし、瞬を汚すことは勇気の要る仕事だった。
そんなことをしてしまったら、そんなことをしてしまった人間は、生涯 罪悪感に苛まれ続けることになるに違いない――と、氷河は思わないわけにはいかなかった。
たとえアテナから明確な指示が出ていたとしても、自分にはそんなことはできなかっただろう、とも思う。
だが、その罪を他人に犯させるわけにはいかない――犯させたくない。
そんな“仕事”はしたくはないのに、氷河はその仕事を他の者に任せるのも嫌だった。

とはいえ、いずれにしても、そもそもどうすれば瞬をハーデスの器たり得ない者にすることができるのかが、今の氷河にはわかっていなかったのである。
身体を汚せばいいのか。
欲、邪心、憎しみ、妬み――そんなふうな人間らしい感情を瞬に持たせればいいのか。
そのために瞬の信頼を勝ち取り、その上で裏切ってみせればいいのか。
瞬の信頼を裏切り、瞬の中に憎しみを生ませることをすれば、人の世は救われるのか――。
もしそうなのだとしたら、そんなことをしなければ救われない人の世に、はたして存在し続ける価値があるのか――。
氷河には、やはりわからなかった――どうしても わからなかった。

「氷河は僕の何? 氷河は 僕が何者なのかを知ってるの? 僕は、この先どうすればいいの?」
今日初めて出会った正体の知れない男を全く疑った様子のない目をして、瞬は氷河に尋ねてくる。
氷河自身にもわからないことを、氷河は瞬に教えてやることはできなかった。
わかっていても、教える気にはなれなかったろう。
氷河は、とりあえず、瞬とハーデスと聖戦には全く関わりのないものを、瞬に求めた。
「そうだな。まず俺に今夜のねぐらを提供してもらえるとありがたいんだが」

氷河は内心、我ながらへたな話の逸らし方をするものだと舌打ちをしたのだが、瞬にはそれは嬉しい言葉だったらしい。
氷河の要望を聞くと、瞬はぱっと瞳を明るく輝かせた。
「氷河はしばらく この村にいるの? なら、この家に泊まるといいよ。寝床はすぐに作れるから!」
「え? あ、いや、俺は――」

聖闘士もたぶらかせそうな様子をした者と同じ屋根の下で起居を共にする危険を犯すつもりのなかった氷河は、瞬の提案に大いに困惑することになった。
が、村には宿もなく他に空いた家もないと瞬に言い募られて、氷河は結局 瞬の世話になることになってしまったのである。
瞬の身に異変が起きた時、その近くにアテナの聖闘士がいることは有益なことだろうと、必死に自分に言い訳をして。
氷河がその厚意に甘える旨を伝えると、既に 現世で最も清らかな者は聖闘士のたぶらかしに取りかかっているのではないかと思えるほどに輝くような笑顔を、瞬は氷河に向けてきた。






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