ハーデスにその心身を捧げ、うまく・・・すれば、この地上の支配者になる人間。
瞬との生活は、だが、驚くほど平和で素朴なものだった。
日に一度 薬草を摘むために野や山に出掛け、病人や怪我人の出た家を訪ねて薬を渡し、空いた時間には子供たちの遊び相手を務める。
子供たちが瞬に懐くのは自然なことのような気がしたが、大人たちまでもが――本来は一癖も二癖もありそうな者たちまで誰もが――瞬への当たりが優しいことには、氷河も驚きを隠せなかった。
瞬と共に日々を過ごすうちに、まもなく氷河は その自分の認識が間違っていることに気付くことになったのだが。

この村の者たちが優しいのではないのだ。
事実はむしろ逆で、瞬が誰に対しても優しい眼差しを向けるから、村人たちも瞬に対して優しくなれている――というだけのこと。
それだけのことが、この小さな村を 優しく穏やかな人間たちの住む場所にしているのだった。
瞬のその優しさは よそ者である氷河にも向けられ、氷河は――氷河もまた、この村の者たちと同じように変化し始めている自分に気付くことになった。

たとえば子供がどんなたちの悪いいたずらをしても許し愛してくれる母親。
人間がどれほど深い罪を犯したとしても許し愛してくれる神。
瞬の瞳と向かい合っていると、人はそういうものたちの愛情に包まれているような気分になる。
たとえ自分が瞬を傷付け裏切るようなことがあっても、瞬なら必ず許してくれるだろうと信じることができる。
だからこそ、瞬を傷付け裏切ることはできないという思いが、人の心には強く刻まれるのだ。
そして、いつまでも、できるだけ長い間 瞬と共にいたいと願わずにはいられない。
少なくとも氷河はそうだった。
村の者たちも似たような心の作用で、どうしても瞬には冷淡に当たることができずにいるのだろう――と、氷河は察していた。

村人たちと氷河の心情にある相違はただ一つ。
氷河の内には、できるだけいつまでも瞬の側にいたいと願う心の他に、瞬をハーデスに渡したくないという強い思いがあることだけだった。

時間はない。
瞬の側にいることの温かさ快さに浸って 悠長に時を過ごしていることは、氷河には許されていなかった。
瞬を汚せばいいのだということはわかっていた。
肉体的に汚すのは簡単なことであり、その心を汚す術に全く心当たりがないわけでもない。
氷河自身は“清らか”な人間ではなかったので(氷河はそう認識していた)、その方法はいくらでも思いついた。

だが、氷河は、この澄んだ瞳の持ち主にこそ好意を抱いたのである。
瞬を汚せば、この奇跡のように澄んだ瞳の持ち主は地上から消え失せ、瞬を汚した者は 今と同じ気持ちで瞬を好きでいることができなくなるのかもしれない。
そんな不安が、どうしても氷河に行動を起こさせてくれなかった。

(世界の存続を守るために、俺は 自分の恋を自分の手で葬らなければならないというのか……?)
そんな作業に嬉々として取りかかる人間がどこの世界にいるだろう。
『いるわけがない』と、自分が組み立てた仮定文に憤ってから、氷河はその事実に気付いた。
『恋』という言葉を、当たりまえのように自分が用いている事実に。

この村の者たちが母や神のそれに似た瞬の瞳に快さを感じているように、自分もまた瞬が感じさせてくれる優しい感触に浸っていることを望んでいるのだと、氷河は思っていた。
実際、その思いに関しては、氷河の心と村人たちの心の間には大きな差異はなかっただろう。
だが、この村の者たちとは違って、氷河は、その瞬を奪い独り占めしようとする卑劣な神の存在を知っていた。
瞬が自分以外のものに奪われ、自分は瞬を失う――そんな未来が 近い将来現実のものとなるかもしれないことを知っていたのだ。
瞬がハーデスのものになれば、この世界は、自分は、瞬を失う――。

瞬がこの村のすべての者に愛されていることを知った時には、氷河の心は何の動揺も覚えなかった。
それは自然なことだし、よいことだとも思った。
だが、瞬が誰か一人の者に独占されている事態には――。
そうなる可能性があることを考えただけで、氷河の胸中には煮えたぎるような怒りが湧いてくる。
瞬を独占しようとする者の存在が、ハーデスという存在を知っていることが、氷河の内にも独占欲を生むことになった。
皆のものだと思うから、自分だけのものでなくても耐えることができるのだ。
瞬が誰か一人のものになってしまうことには耐えられない。
それは許せることではなかった。

自分の内にある あまりにも通俗的で身勝手な独占欲――恋――に気付いて、氷河は愕然としたのである。
そんなものを、こんな時に、そして、こんなとんでもない相手に抱いて どうなるというのか。
それでなくても難しい事態を、更に混乱させるだけではないか――と。
しかし、恋というものは時と場合をわきまえずに生まれてしまうものらしく、氷河が自分の心に分別を植えつけようとした時には既に、彼はその分別のない感情の虜になってしまっていた。

いったい どうすればいいのか――。
自分で“難しく”してしまった事態に氷河は困惑することになったのである。
瞬に世界を滅ぼすという巨悪を犯させないためにはどうすればいいのか――その問題を解決できれば すべては丸く収まるはずだったのに(それだけでも解決の困難なことだったというのに)、今は、瞬を自分のものにしたいという強い欲求が、『世界の存続なんかより、この俺を優先させろ』と、氷河をせっついてくる。
あまりにも強く我儘な恋情への困惑が極まり、混乱し、氷河は最後には途方に暮れてしまったのである。
人間が生きている世界を守る作業の担当責任者として、今の自分ほどふさわしくない人間はいない。
それだけが、今の氷河に確信できる唯一の事柄だった。






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