ヒュペルボレオイの国は、1年の半分は雪と氷に覆われる北の国。
都は国の南端にある。
エティオピアは南方に砂漠が広がる南の大国。
その都は国の北端にある。
両国の領土は、共にギリシャの数十倍に及ぶ広大なものだったが、都と都の距離は驚くほど近かった。
早朝故国の都を出た氷河は、だから、その日のうちにエティオピアの都に着くことができたのである。
宿屋に馬と荷物を預けると、彼は宿の主人に食事の美味い店を教えてもらい、すぐに街に出た。

エティオピアの都は活気にあふれていた。
浮浪者の類も、少なくとも表通りでは一人も見付けるこができなかった。
市場の方にも足を伸ばしたが、そこにはたくさんの店が軒を連ね、野菜や果実を扱っている店の主人たちが、残り少なくなった今日の売り物を売り切ってしまおうと、あちこちで客を引く声をあげていた。
衣料、食品、雑貨等、商品も豊かなようである。

夕刻。
通りや広場を行き交う人間の数も多い。
その日の仕事を終えた市民の顔には快い疲労感は浮かんでいたが、救いのない暗さや絶望をたたえた顔はほとんど見当たらなかった。

氷河が宿の主人に教えてもらった食事どころは賑わっていて、品書きも豊富だった。
10ほどある卓は皆 埋まっている。
値が法外に高いわけでもなく、良心的な経営をしている店に思われた。
こういう店が流行るのは当然のことなのだが、こういう店が存在し商売が成り立つこと自体、都の治安が保たれている証拠である。

「事情があって、よその国から逃げてきたんだが、エティオピアは住みいい国か」
料理を運んできた店の若い給仕を掴まえて、氷河は彼に尋ねてみたのである。
「そりゃあ、エティオピアには我等が国王陛下がいらっしゃるからな」
ほとんど間を置かず、覇気と張りのある声音の答えが返ってくる。
「戦の戦利品で潤っているというわけか」
氷河の言葉に非難めいたものを感じたのか、彼はすぐに“彼等の”王を向きになって弁護し始めた。
「戦の戦利品って、そりゃあ、もともと国に収めるべきだったものを悪い奴等が横領してたもんだろ。それを王様が取り返しただけのことだ。それで王様が贅沢三昧してるってわけでもない」

国の民が自国や自国の王に誇りと愛情を持てるということは幸福なことである。
言葉を交わしたことはおろか、間近で顔を見たことさえないのだろう自国の王を誇らしげに語る彼は、実際 実に幸福そうだった。
何といっても表情が明るい。
「税も軽い。役人も不正はしない。信賞必罰が厳正で、悪いことをする役人がいないんだ。それもこれも王様が公平で厳しい方だから」

「王の人気は絶大のようだな」
氷河が彼の熱意に負けたように その事実を認めると、
「絶大だね」
彼は得意そうに大きく頷いた。
「ここはいい国だよ。町で稼ぐにしても、村で働くにしても、すごくいい国だ。働けば働いただけの見返りがある」
労働に相応の報いがある、努力すればその努力に見合う報酬を得ることができる――それは、ある意味では自然かつ当然のことなのだが、それが自然で当然のことと思える境遇の実現は、実は非常に困難なことである。
そういう環境を国民に提供できる国王は、確かに優れた国王であるだろう。

「王に不満はないか」
「不満なんかあるわけない。前の王様の頃に比べたら、今は天国だ。前の王様は贅沢好きで、お城の庭を造り変える費用が必要だからって急に変な税を増やしたり、上手いおべんちゃらを言うことしか能のない家臣に法外な年金の支給を認めたり――お城の外にいる俺たちの生活のことなんて少しも考えてくれなか――」

それまで立て板に水で自国の王の素晴らしさ(前王の怠惰)をまくしたてていた男が、ふいにその言葉を途切らせる。
それから彼は軽く首をかしげた。
「今日は変な日だな。まるっきり同じことを、さっきも聞かれた」
「同じことを聞かれた?」
「王の治世に不満はないかとか、役人の悪い噂は聞かないかとか――」
「誰に」
「あそこにいる子に」
「子?」

給仕が指と視線で示した先のテーブルには、確かに“子”としか言いようのない子が一人いた。
どう見ても成人はしていない。
首も手足も細い、いわゆる“子ども”――である。
「前に別の店で見たことがあるんだ。おそらく王様が俺たちの生活を気にかけてくださって、巷間に放っている密偵だね。ありがたいことだ」
「エティオピア国王の密偵……」

事実そうなのかどうかは氷河には知りようもなかったが、もしエティオピア国王の評判を確認しようとしている者がいたとしたら、それはエティオピア国王の意を受けた者か、もしくは彼に敵対する者――敵になるかもしれない者――のいずれかだろう。
以前他の場所で見たことがあるという給仕の話が事実だとしたら、“子ども”は自分が人目につくことを避けてはいないということである。
つまり、この国の統治者に不都合なことをしているという意識がないということ。
給仕の推察は当たっていそうだった。

そのは、この店の女将らしき中年の女性と話をしていた。
氷河の上に視線を据えて。
氷河は先程 女将が注文を取りにきた時、彼女にもエティオピア国王の評判を聞いていた。
氷河が今得たものと同じ情報を、たった今 その子も得たに違いない。
だから、その子どもは、自分と同じことを嗅ぎまわっている男の上に、その視線を据えているのだ。
あの子がエティオピア国王の手の者だとすると、この事態は少々まずいかもしれない――と、氷河は思ったのである。

同じ仕事にいそしんでいるお仲間(しかし、雇い主は異なる)がゆっくりと、だが隙のない身のこなしで近付いてくる。
氷河が掛けているテーブルの前で、その子どもは立ち止まった。
「陛下の家来ではないね。誰? シュルティスの残党?」
先日の反乱でエティオピア国王に成敗された領地の名を出して、その子は氷河に誰何すいかしてきた。

エティオピアの者に身分を問われたら どう答えるか、もちろん氷河はその答えを用意していた。
仮の身分を、事前に準備していた。
しかし、氷河は、その答えをすぐに口の端にのぼらせることができなかったのである。
よりにもよって、エティオピア国王の密偵かもしれない子どもの美しさに打たれたせいで。
とはいえ、氷河を驚かせたのは、その子どもの造形的な美しさではなかった。
もちろん姿形も美しかったが、それ以上に その子どもは“印象”が際立って美しかったのである。
瞳が尋常でなく澄んでいた。

少女のような面立ちをしてはいるが、少年なのだろう。
身に着けているものは子供用だが男物の服、膝上丈の上着を押さえている帯には細い剣を差している。
その剣が飾り物でないことは明白だった。
普通の美意識を持つ者なら誰も、自分に似合わない装飾品を身につけようとは思わないだろう。
「答えて」
「あ……ああ」

きつい口調で再び問われ、氷河はやっと我にかえった。
自分の本当の立場を隠すためというより、露呈した失態への照れ隠しのために、少々きまりの悪い笑みが自然に口許に浮かんでくる。
「いや、君が綺麗なのでびっくりしてしまった」
「人のことを言えるの? こんな目立つ間諜を放つなんて、あなたの主人は愚か者だ」
「奇遇だ。俺も同じことを考えていた。こんな綺麗な子を平気で夜の街に送り込むとは、エティオピアの国王は豪気だな。俺なら城の中に閉じ込めて、決して外には出さない」
それができるということは、街の治安が保たれているということである。
氷河は真面目な考えから そう言ったのだが、その言葉はどうやらエティオピア国王の密偵の機嫌を損ねてしまったらしい。
彼はその綺麗な顔を惜しげもなく歪めて、むっとしてみせた。
そんな表情をしても、可愛らしいものは やはり可愛らしいだけだったが。

「じゃあ、王に代わって、僕がそれをします。あなたを城に閉じ込めて外には出さないことにする。悪いけど、不審人物として捕縛させてもらいます」
「それはやめてくれ。大人しく同道する。その前に宿に戻って、預けてある荷物と馬を引き取ってきたいんだが構わないか」
不審人物のそんな希望がれられるわけがない。
氷河は半ば冗談でそう言ったのだが、驚いたことに、エティオピア国王の密偵は氷河がそうすることを許してくれた。






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