いくつかの館の前を通り、丘の頂にあるエティオピア国王の居城に至る裏門をくぐったところで、それまですっかり無口になってしまっていたエティオピア国王の密偵がやっと口を開く。 城内に入って自身の優越を思い出したのか、彼の声はこころなしか弾んでいた。 「あっちが牢のある建物だよ。今はちょうど空いているの。酔っ払って物を壊したり、喧嘩をして人に怪我をさせてしまった人たちくらいしか収監されていないと思うから、どれでも好きな牢を選べると思うよ」 それで口の達者な敵国の間諜をやりこめられると思ったらしく、エティオピア国王の密偵は、氷河に向かって満面の笑みを見せてくれた。 その笑顔を消してしまいたくなかった氷河は、素直に彼にやりこめられてやることにしたのである。 そのために、わざと情けない声と顔を作る。 「勘弁してくれ。俺は、この国の王の評判を聞いていただけだ。国を捨ててきたから、腰を落ち着けて大丈夫な国かどうかを見極めようとしていただけ」 「どこの国の人なの」 「ヒュペルボレオイ」 「……豊かな国と聞いているけど。数年前まで麻のように乱れきっていたけど、新しい王のもとで、エティオピアより先に国の統一が成って、今は平和――」 「豊かで平和な国が誰にでも住みよいところとは限らないだろう」 「何かしでかして追放でもされたの」 「まあ、そんなところだ」 「いったいどんなことを――」 「俺はヒュペルボレオイのさる公爵家の厩番だったんだが、美人で有名だった公爵夫人に手を出した」 「……」 矢継ぎ早に繰り出されていた質問が、そこで途切れる。 正直な答えには疑念を抱いた様子を見せなかった尋問官が、虚偽の申告をした途端に眉をひそめるのを見て、氷河は、この子どもは歳に似合わず人間の 氷河のその判断は、半分は当たっていたが、半分は間違っていた。 彼が氷河の答えに引っかかりを覚えたのは、どうやら、それが彼の耳に あまりに真実めいて聞こえてしまったせいだったらしい。 「間諜の言うことを鵜呑みにするわけにはいかないけど、ありえそう」 「俺がそんなことをする男に見えるのか。心外だ!」 自分が申告した事柄だったというのに、それを認められて、氷河は立腹した。 「それだけ綺麗なら、女性が放っておかないでしょ」 「まあ、それはそうだが」 その見解は妥当である。 氷河は、その言葉には深く頷いた。 そして、現在の自分の立場をわきまえず、被告人でありながら尋問官に問いかける。 「不死鳥陛下はどうだ? 俺よりいい男か? 不死鳥陛下に会ってみたいんだが。街で王の評判を聞いているうちに、不愉快なツラさえしていないなら、エティオピア国王の臣下に加えてもらうのもいいかもしれないと思い始めた」 「王に会えるわけがないでしょう。正体の知れない異国人が」 呆れた顔できっぱりと言ってから、エティオピアの密偵は、彼の馬から飛び降りた。 氷河にも下馬するように促してから、氷河の馬をしげしげと見詰め、 「こんな立派な馬に乗った追放者なんて、怪しすぎる」 と、氷河にも聞こえるような声で呟いた。 そして、その視線を馬の持ち主の上に持ってくる。 「とりあえず、ヒュペルボレオイからのエティオピア国王家への客人ということで、城内に部屋を用意させます。そこから自由に外には出られないようにさせてもらいますけど」 「なに?」 自分に下された裁定に、氷河は虚を衝かれたような気分になってしまったのである。 氷河は入牢を覚悟していた。 「不満なの?」 不満を口にできる立場かと言わんばかりの口調で、エティオピア国王の密偵が氷河に尋ねてくる。 それを不満と言ってよいものかどうか、氷河はしばし悩むことになってしまったのである。 「不満というわけではないが……牢にぶちこまないのか」 「あなた、本当にとても怪しいけど、悪いことをした証拠もないのに、そんなことができるわけがないでしょう」 「俺の名は氷河だ。……なるほど、理不尽に捕えられることもないのか。いい国だ」 心底から、呻るように、氷河はエティオピア国王の家臣に聞かせるためのものではない賞讃を言葉にした。 この国では、被支配者層にも異国人にも、そして罪人や容疑者にも、人権が認められているらしい――地位や富のない者も一個の人間として扱われるらしい。 それは、共和制を採用している国でも実現の難しいこと、まして、エティオピアのように強力な中央集権国家を目指している国では、どちらかといえば意識して切り捨てられる理想のはずである。 おそらくエティオピアは、“内乱のない国”以上の国になろうとしているのだ。 氷河は心の底から感嘆しないわけにはいかなかった。 「……ありがとう。僕の名は瞬だよ」 思ってもいなかった反応が、エティオピア国王の密偵――瞬――から返ってくる。 あれほどエティオピア国王への賞讃を素直に受け入れようとしなかった瞬が、良いものを良いと褒めただけのことで、礼を言ってくるとは。 その時になって、氷河はやっと気付いた。 瞬は、氷河が口にする王への賞讃を受け入れ難く思っていたのではなく、王の努力の成果――彼の国そのものの価値を認めてほしいと思っていたのだということを。 エティオピア国王が少しずつ建て直してきたこの国、その成果への賞讃こそを、瞬は真実の賞讃だと感じているのだ。 それはつまり、瞬がそれほど王に近い場所にいる人間だということだった。 変革成りつつある国への賞讃は、本来は、その変革を意図し実行している国王その人が願うべきことなのだから。 瞬とそこまで心を一つにできているエティオピア国王に、氷河は少しばかりの妬心を覚えたのである。 「俺の方こそ宿代が浮いてありがたい――が、本当にいいのか」 「不審な人間を鎖もつけずに町中に放っておくようなことはできないし、氷河――にも、この城に入れることは、どちらかといえば好都合なんでしょう? せっかく潜り込むことのできた場所から逃げ出すようなことはしないはずだから、城内でも鎖は不要――ということだよ」 だが、不審人物を鎖で牢に繋いでおいても、エティオピア側には何の不都合もないはずだ――そう言おうとして、氷河は、その言葉を喉の奥に押しやった。 何も自分から自分の身を危うくすることはない。 瞬はその事実に気付いていないようだった。 たとえどれほど不審な人物が相手でも、その人間の自由と命は守られるべきであるという考えが、その身にしみついているらしい。 その上で、瞬は自らの職務に忠実かつ勤勉だった。 「牢に入れる必要がないと思うのは、あなたのその姿のせいもあるよ。目立ちすぎて、どこに逃げてもすぐに見付かりそうだもの。それに」 「それに?」 「あなたが僕と同じことを聞いていたっていうのが気になる。シュルティスの残党でもないようだし。何のためにあんなことをしていたの?」 「だから、この国に腰を落ち着けてもいいかどうかを――」 それが白々しい“嘘”だということは、承知しているらしい。 瞬は、氷河の繰り言を遮った。 「あなたの雇い主の名を言う気はない?」 「俺自身の――ただの興味だ。俺は人の命令では動かない。俺に何かを命じることができるのは俺だけだ」 それだけは嘘ではない。 それが嘘ではないことは、瞬も感じ取っているらしく、瞬はそれ以上この場では氷河を問い詰めようとしなかった。 「言う気になったら、すぐに僕を呼んで」 「今は言う気にはならないが、毎日おまえに説得されていたら、白状したい気分になるかもしれない」 「じゃあ、毎日説得しに行きましょう」 「本当か! なら俺も、1日も早く白状したい気分になれるよう頑張ってみることにしよう」 「……」 どこまでが本気なのかがわからない――という顔を、瞬が作る。 氷河はもちろん、どこまでも――徹頭徹尾、本気だった。 |