瞬のエティオピア王国での立場は、王の直属、そして子飼いの部下――というところらしかった。 どうみても10代半ばの少年だというのに、かなりの権限を持っているらしく、また、かなり多忙でもあるらしい。 氷河は、牢というには豪奢すぎる一室を与えられ、食事も衣服も文句を言ったら罰が当たるような待遇を許されることになった。 もっとも、氷河自身は、そんなことよりも、多忙を極めているらしい瞬が不審人物との約束を守って 毎日その部屋を訪問してくれることの方を嬉しく思っていたのだが。 エティオピア国王の側近に登用されるだけあって、瞬は実に聡明な少年だった。 エティオピア国王への忠誠心は疑いようもないが、無条件で王に心酔しているわけでもないらしく、時には辛辣な王への批判も口にした。 瞬は争い事が――特に武器を用いた命のやりとりが――好きではないらしい。 話題がエティオピア国王の過去の華々しい戦での勝利に及ぶと、瞬はいつも暗い表情になった。 「しかし、それももう終わりだろう。シュルティスが最後の反乱になるだろうと、専らの噂だった」 「それはどうでしょう……」 瞬は、エティオピア国内にはまだ内乱の火種があると考えているようだった。 ヒュペルボレオイの民である氷河よりは瞬の方がエティオピア国内の情勢には通じているだろうから、その懸念を否定してやることは氷河にはできなかった。 が、それでも氷河は、もし自分にそうすることができたなら、たとえ気休めにでも瞬の懸念を否定してやりたいと、心底から思ったのである。 瞬は、それほどに、人が血を流すことを厭うているようだった。 それがたとえ、大多数の国民の命と生活を守るための、正義と呼ばれる行為であったとしても。 「これだけ民に歓迎されている王に、まだ逆らう者がいるということか」 「人を支配する階級に生まれた者の中には、良い王のもとでの平和な生活より、より大きな権力を手に入れたいという野心の方に価値を置く人間がいるみたい」 そう告げる瞬の眼差しは悲しそうで、氷河は、瞬のそんな眼差しに出合うたび、瞬を抱きしめてやりたい衝動にかられることになったのである。 瞬と共に日々を過ごすうち、エティオピア国王の意図がどこにあろうと そんなことはどうでもいいと、氷河は考えるようになってきていた。 問題は、エティオピア国王がヒュペルボレオイに野心を持っているかどうかではないのだ。 もし彼がそんな野心を持っていたら、その野心を実行に移すことの愚を悟らせ、両国の間に友好的な関係を築くべく努めることが自分の役目だと、氷河は自身の考えを改めるようになっていた。 そして、両国の間に平和と友好が確立したら、瞬をエティオピア国王から貰い受けることはできないだろうかと、氷河はそんな希望を抱き始めていた。 身の周りの世話をしてくれる小間使いや、時折豪奢な牢獄に顔を出す守兵に、氷河は、瞬とエティオピア国王の関係を幾度か探りを入れてみた。 彼等はそのたびに困ったような顔をして言葉を濁すだけで、氷河の知りたいことを教えてはくれなかった。 彼等は、 「瞬様は陛下のお気に入りなんです」 という、説明にもなっていない説明を繰り返すばかりだった。 『お気に入り』。 これほど曖昧で、どういう意味にでも解釈できる言葉もない。 瞬にエティオピア国王はどんな男なのかと尋ねても、瞬は、 「王の敵であるかもしれない人に、そんな情報を与えることができるわけないでしょう」 と、尤もらしい理屈を盾にして、一向に氷河の懸念を晴らしてくれない。 エティオピア国王が、瞬の快いほどの聡明を気に入っているのか、それとも、清純そのものの容姿を気に入っているのか、氷河はせめてそれだけでも知りたかったのだが――知って、安心するなり憤るなりしたかったのだが――瞬は氷河のそんなささやかな望みさえ叶えてはくれなかった。 ごまかされ焦らされ続けているうちに、氷河は、いっそ次に瞬が自分の許を訪ねてきた時には力づくで その身を犯してやろうかと、毎晩そんな馬鹿な妄想に走るようになってしまっていた。 もちろん、実際に翌日 瞬の姿を目の前にすると、そんな決意はすぐにしぼんでしまうのではあるが。 優しい風情をたたえ、実際に大抵の場面において瞬は驚くほど寛容な人間だったが、ある一事において、瞬の態度は峻厳を極めていた。 人間の心身の自由を理不尽に損ねること、その命を無体に脅かすこと――そういった有形無形の暴力を、瞬は心底から嫌悪しているのだ。 瞬が争い事を嫌うのも、そのあたりからきているらしい。 そんな瞬を力づくで犯したりしたら、瞬は自分に暴力を振るった男を一生許さないだろう。 瞬に恋する男としては、それは何があっても避けなければならない事態だった。 そんなある日――氷河がこの城で、ヒュペルボレオイからの客人として暮らすようになって半月ほどが経った頃。 瞬が暗い顔をして 氷河が軟禁されている豪奢な牢獄にやってきて、しばらくこちらに顔を出すことができなくなる――と言ってきた。 その暗い表情を見て、氷河はすぐに事情を察したのである。 瞬の嫌いな戦が始まろうとしているのだ――と。 「不死鳥陛下は軍を出すのか」 氷河の推察は的を射たものだったらしい。 瞬は唇をきつく引き結んで、氷河に頷いた。 「今度こそ、これが最後の反乱です。――おそらく」 国王から領地と領民を預かっている領主・貴族の反乱はシュルティスのそれが最後だった――と、瞬は言った。 「今度の反乱の首謀者は神官なんです。彼は土地も徴税権も持っていない。彼の武器は、『王は邪悪な人間だ』という彼の言葉を信じている無垢な信徒たちだけなんです」 無垢で現実が見えていない愚か者ほど 政治の邪魔になるものはないぞ――と言いかけたところで、氷河は、この反乱の最も大きな問題は そんなところにはないということに気付いた。 重苦しげな瞬の声と表情。 氷河は最悪の可能性に思い当たってしまったのである。 「まさかおまえも討伐隊と共に戦場に行くつもりか!」 「当然です」 言葉通り、それを至って当然のことと考えている様子で、瞬は氷河に頷いた。 氷河は瞬のその答えを聞いて、さっと青ざめてしまったのである。 「馬鹿なことはやめろ!」 「やめろ?」 瞬が不思議そうな顔をして、氷河を見あげてくる。 が、氷河にはそれは不思議なことでも非常識なことでもなかったのである。 瞬が戦場に立っていることの方が、氷河にははるかに奇妙でおかしなことだった。 「おまえの手と目は、人と戦うためにあるものじゃない!」 「え……」 氷河は氷河で、“当然”かつ“自然”と思われる事実を訴えているつもりだったのだが、その氷河を見詰める瞬の瞳は、ますます“不思議”の色を濃くしていく。 氷河がなぜそんなことを気色ばんで主張するのか、瞬はそれが不思議でならないらしい。 「それだけは駄目だ。こんな綺麗な目が、幸福な民の姿ならともかく、無残な戦場を映すなど。エティオピアの王は何を考えているんだ! 駄目だ、駄目だ。絶対にそんなことは許さない!」 その怒声は、瞬の嫌いな“人間の権利を侵害する行為”だったかもしれない。 氷河は瞬にそんなことを命じる権利を有してはいない。 高圧的な命令口調は瞬の機嫌を損ねることになるかもしれないと思いはしたのだが、氷河は言わずにはいられなかったのである。 瞬の機嫌の良し悪しは大事なことだが、それは瞬の命に代えられるものではない。 瞬は、瞬の意思決定に口出ししてくる異国の男に機嫌を損ねた様子は見せなかった。 代わりに瞬は、乱暴な命令を下す男の前で、その瞳から涙を一粒零した。 「瞬……?」 「あ、ううん。僕、本当は戦うのは嫌いなの。戦場には行きたくない――本当は」 瞬が 素早く涙を拭い去り、無理に作ったことが一目瞭然の笑みを浮かべる。 瞬の涙と言葉に力を得て、氷河は重ねて瞬を引き止めた。 「なら行かなければいいんだ!」 「そうはいかないよ」 「なぜだ! こんな細腕でおまえに何ができる。おまえが行かなくても、戦局に何の変わりも生じないだろう」 「そんなことないよ。僕は――ほら、斥候としては有能なの」 「行くな! どうしても行くというのなら、俺を連れていけ。俺がおまえを守る!」 「戦場なんて危険なところに氷河を連れていけるわけがないでしょう。この国の人間ではない氷河を軍の中に入れることができるわけもない。氷河は、ここで僕の帰りを待っていて」 「瞬……!」 どうあっても考えを変える気がないらしい瞬に向かって、氷河は悲鳴じみた声を響かせたのだが、瞬はそんな氷河に微笑を向けただけだった。 「僕は行かないわけにはいかないの。でも、これをエティオピアの最後の戦にする。必ず」 決意に満ちた眼差しでそう告げて、瞬は急に慌しく氷河の部屋を出ていってしまったのである。 これ以上この場にいたら出陣の決意を鈍らされてしまう――瞬はそうなることを恐れたようだった。 何がどうあっても、瞬を戦場などに行かせるわけにはいかない。 その日の夕刻、もう一度瞬の説得を試みようと考えた氷河は、食事を運んできた小間使いに、自分が瞬との面会を求めていることを伝えてほしいと頼んでみたのである。 だが、彼女の返事は、エティオピアの正規軍は既にその日の午後 戦場に向けて出発したという事実を知らせるもの。 彼女は その事実を知らされて呆然とした氷河に同情したのか、彼に、『瞬も出陣した』とは言わなかった。 彼女は、 「だから、しばらくの間、瞬様はこちらにはお見えになれません」 と、気の毒そうに告げただけだった。 |