嫉妬を感じなくていい――それだけのことで、氷河の心は随分と落ち着いた。 王の寝室の異変に気付いた守兵たちが、 「下がっていて」 という瞬の一言で大人しく引き下がったところを見ると、瞬がエティオピア国王だというのは、その場しのぎの出まかせではないらしい。 一人よがりの妬心にかられ、氷河が彼の恋敵ばかりか その恋人にまで殺意を抱いたことを、瞬はなぜか咎めることをしなかった。 呆然とその場に立ち尽くしていた氷河に、瞬は、王の寝台に腰をおろすことを許しさえした。 そうして瞬は、彼がこの国の王となった経緯を、氷河に語ってくれたのである。 「王といっても、僕は正式に即位はしてないの。エティオピアの正式な王は今でも僕の兄で、兄は2年前に死にました」 2年前に死んだ王――それが、その戦い振りを鬼神とも評されたエティオピア国王ということになるのだろう。 だがエティオピア国王の死の噂など、ヒュペルボレオイはおろか、エティオピアの都の内ですら、氷河は聞いたことがなかった。 否、一度――2年前に一度――聞いたことはあったが、それはエティオピア国王当人の華々しい戦の勝利で否定されていた。 「僕たちの父は、王でいる資格を持たない王だった。贅沢を好んで、民の暮らしのことなど気にもかけず、自分が幸福なら民も幸福でいると信じているような人だった。父が死んだ途端に、国のあちこちで反乱が勃発したのは、自然なことでもあり、皮肉なことでもあったと思う。反逆者は、みんな父に取り入ってその地位を得た者たちばかりだったから。彼等は、王が代わったら自分の地位を剥奪されると思ったんでしょう。兄は父の追従者たちを蛇蝎のごとく嫌っていたから」 前王――実際には前々王――の死後、エティオピア国内のあちこちで反乱が起こったのは、前々王の追従者たちが己の地位と利を守るために、新王に対して先手を打ったものだった――ということらしい。 「兄は、それでも最初は彼等に文書で現在の地位を王家に返上するよう命令したんです。結局は武力にものを言わせるしかなかったけど――」 『王のための国ではなく、民のための国を作る』 それがエティオピア前王の即位式での宣誓だったと、瞬は言った。 「漆黒の甲冑と白馬――兄は、戦に出れば鬼神のごとく強い人で、でも、兄がそうしたのは民のためだった。父の生前、父に態度を改めさせることのできなかった自分の罪を贖うためでもあったのかもしれない。兄は厳しくて優しい心の持ち主だった。兄さんは僕の誇りだったよ。兄さんの身に染み込んでいく血の匂いは嫌いだったけど、その姿は悲壮そのもので、僕は兄さんの理想を叶えるためにならどんなことでもしようと決意したんだ」 瞬は兄を心から慕っていたのだろう。 慕い、尊敬し、愛してもいた。 しかし、その兄――鬼神とも呼ばれていたエティオピア国王――が2年も前に亡くなっていたとは。 「やはり病で」 「ううん。あれは暗殺……ということになると思う」 「暗殺?」 頑健な肉体を持った男が病魔に侵されることは、少々印象が狂う事態ではあるが あり得ないことではない。 しかし、鬼神とも言われた男が暗殺者の手にかかるというのは、ある意味不自然なことだった。 自身の生に対して油断することをしないから、彼は鬼神の異名をとっていたに違いないというのに。 「南方で起こった内乱を平らげて、兄は、ある一人の領主を処刑した。残酷で冷酷でひどい領主だったそうです。彼を恨み憎んでいない領民はただの一人もいないと言われるくらい。彼の処刑後、兄は領民の意見を聞いて、新しい領主を任命して、それで政治的には決着がついたんですが――」 瞬が苦しそうに眉根を寄せる。 短く吐息してから、瞬は話を続けた。 「処刑された領主には娘が一人いました。僕に似てるって、みんなが言ったけど、僕には、彼女は僕よりずっと優しそうで頼りなげで、でも芯が強い人に見えた。彼女のお父さんが治めていた領地に彼女を残しておくと、彼女の父を恨んでいた領民たちが彼女に何をするかわからないから、兄は彼女をこの城に引き取ったんです。彼女も生前はお父さんを嫌っていたようで、お母様が死んだのも父親のせいだと思っているみたいでした」 悪逆非道の父は正統の王に逆らい破れ、悪因悪果としかいいようのない最期を遂げた。 彼に虐げられていた民は、その結末と、苦しみからの解放者である王に歓喜したに違いない。 「彼女は自分も父親を嫌っていたけど、本当にその死を悲しむ人が一人もいない父を哀れに思ったんでしょう。実の娘である自分でさえ父親のために泣くことができなかったから、そのことに罪悪感も感じていたようです。兄は彼女にとても親切にしたんですけど、彼女は、でも、兄の優しさにむしろ苦しんでいたのかもしれない。父の仇に惹かれていく自分が、人の心を持たない冷血漢のように感じられていたのかもしれません。そして、彼女は兄を殺した。どんな気持ちが彼女にそうさせたのか、本当のところは僕にはわからない――誰にもわからない」 「まさか……。鬼神とも言われていた男が、かよわい女の手にかかったというのか」 「本当に虫も殺せないような風情の気弱げで細い少女でした。兄が油断しても仕方がない――ううん、兄は油断なんかしていなかった。兄はただその少女に恋をしていたんだと思う。恋は……人の価値観を根底から覆してしまう。人に思いがけないことをさせてしまう。彼女にも兄にも、その力が働いてしまったんでしょう」 「……」 昨日までの自分ならいざ知らず、たった今瞬の命を奪おうとしていた氷河には、瞬のいう“恋の力”がどんなものなのか わかるような気がした。 そして、瞬が、愚かな恋人を責めようとしない訳も。 「彼女の中に死の覚悟があることに気付いて、兄は彼女を一人ではいかせられないと思ったんでしょう……多分。兄は……兄さんは本当に強くて優しくて――愛する人のためになら命をかけるようなこともしてしまう人だったから」 それが自分のせいで不幸になった非力な少女ならなおさら、その心は強まったのだろう。 「それに、もしかしたら兄も、国と民のためとはいえ、自分は人を殺しすぎたと思っていたのかもしれません。兄が命を奪った反乱軍の兵たちの中には、領主の命令で仕方なく反乱軍に組み込まれた者も多くいて――本来なら、兄が守るべき罪のない民も大勢いたから」 全体を守るために個々の犠牲を切り捨てなければならないという事態は、ある意味では致し方のないことであり、為政者が抱える最大の矛盾である。 エティオピアの場合は、その犠牲が些少で済まなかったところに大きな不幸があったのだろう。 「国は9割方、平定が成っていた。『国を統一する過程で生まれる憎しみは全部自分が引き受ける。平和な国は、戦に関わらなかった者が治めた方がいいだろう』と、それが兄の口癖になっていました。民は、兄を恐れてばかりいたわけじゃない。エティオピアはいい王を得たと、誰もが皆そう言っていたのに」 「エティオピアの国は、兄という存在を中心に結束しつつあった。兄の死を知れば、その結束はまた解けてしまう。そんなことになったら、兄さんがしたことはすべて水泡に帰すことになるかもしれない。僕は、兄さんが作ったこの国を守るために、兄さんの死を隠すしかないと思ったんです」 「でも、反乱が起こって――エティオピア国王は軍を率いて反乱を鎮めなければならない。僕は、兄のものより ふたまわりも小さい漆黒の甲冑を作って、兄の愛馬より小さな白馬を探して――」 「おまえが戦場に出たのか。兄の代わりに」 瞬が、頷く。 まるで神に与えられた試練の重さに耐えかねたように、瞬は力なく頷いた。 「ほとんど毎日戦いに出ていた兄に比べればものの数ではないけど、内乱を収めるために、僕はたくさんの人の命を奪った。兄の国の民の命を幾百幾千――」 『幾千』は言い過ぎだろうと、氷河は思った。 が、そんなことを言ったところで、人の命を奪ったことで傷付いているシュンの心が癒されることがあるとは思えない。 氷河は結局黙っているしかなかった。 「本当にこれでいいのかって悩んで――。王の務めは民の望みを叶えることだって、兄さんはいつも言っていたから、僕は街に出て聞いたの。王のしていることをどう思っているか……って。誰もが兄のおかげで生活が楽になったとか、幸福になったとか、希望が持てるようになったとか言っていた。兄のおかげでエティオピアに平和がきたって、誰もが言うの。いつまでも兄にこの国を治めていてほしいって。僕は、兄の存在を守り続けなきゃならなかった」 「2年前――おまえは幾つだったんだ」 「14」 「14かそこいらで、国軍を率いて、内乱をすべて収めてきたのか」 「僕の力じゃないよ。僕が身につけている甲冑を見ると、それだけで反乱軍は恐れをなすの。僕が戦いに勝ってこれたのは兄の存在があったからだと思う」 それだけではないだろう――と氷河は考えないわけにはいかなかった。 それだけではないことを、おそらく瞬も気付いている。 2ヶ月間の不可思議な沈黙のあと、以前より更に強さを増してエティオピアの王は蘇った。 その沈黙がエティオピア前王の死が作ったものだったというのなら、『不死鳥』の名は、瞬の兄ではなく瞬自身に与えられた異名だったということになる。 瞬には戦いの才があったのだ。 瞬には不本意ではあったかもしれないが。 「エティオピア国王は天を衝くような大男だという噂があったが、それはおまえの兄のことだったわけだ」 「『大男』というのは誇張が過ぎると思うけど、戦いの場では実際よりはるかに大きく見える人だったから……。兄は死んでからもずっと、僕とこの国を守ってくれているんだと思う。僕を見てそんなことを言う人たちは、僕自身の姿ではなく、僕の上に兄の意思を見たんだと思う」 並外れた戦いの才を身に備え、それでいながら――だからこそ――戦いを厭う小さな王。 もはや確かめる必要もないことだったが、氷河はあえて瞬に尋ねてみた。 |