「おまえは、ヒュペルボレオイの民が今の国王で満足していると言ったら、ヒュペルボレオイを攻める気はないのか」 「ありません。氷河はヒュペルボレオイの王の命令でエティオピアに来たの?」 「そうだ。ヒュペルボレオイの王は、国内に戦う相手のいなくなったエティオピア国王が、その矛先をヒュペルボレオイに向けるのではないかと懸念している」 あっさりとその正体を白状した氷河に、瞬は困ったような笑みを浮かべた。 「そんなに簡単に正体をばらして――間諜失格だね」 「おまえがこれほど重大な秘密を教えてくれたのに、どこぞの公爵夫人に手を出して 故国を追放された間男なんて嘘をつき続けるのは失礼だろう。おまえにそう思われていることは不本意だ」 「氷河は下働きをしてる人間には見えないもの。氷河はヒュペルボレオイの王の“お気に入り”なの?」 『王のお気に入り』――氷河を散々悩ませた その言葉は、では、瞬がエティオピア国王であることを他国の間諜に気付かせぬために意図して用いた言葉だったのだろう。 実際、瞬がエティオピア国王のどういう“お気に入り”なのかということに気をとられ、氷河は他のことに全く意識が向かなくなっていた。 「おまえも鬼神には見えない。戦場は似合わない」 「僕は鬼神なんかじゃなく、死の国の王だよ。何人もの人を この手にかけてきた。きっと死んだあとには、 「そうしなければ、エティオピアの国は麻のように乱れ、もっと多くの民が苦しみ死んでいたかもしれないだろう」 詰まらない――慰めにもならない言葉。 だが、多くの人間を統べる立場に立つ者には、それは必要な詭弁なのだ。 そんな詭弁に慰められることもできないエティオピア国王の頬に、氷河はその手を伸ばし、触れ、そして言った。 「ヒュペルボレオイもエティオピアと同じような状態だったことを知っているだろう。俺も何度も戦場に出て、何百何千の民の命を奪ってきた。俺もいずれは血の河か氷地獄に落ちるだろう。その時は一緒に行こう」 「え」 「俺一人で冥府に下りて行くのは恐いし、ちゃんと氷地獄に辿り着ける自信もない。俺は少しばかり方向音痴の気があるんだ。一時の感情で、進むべき道を間違える――」 「氷河……」 軽い口調で冥府への同道を申し出る氷河に、瞬は切なげに眉根を寄せた。 一人ではなく二人なら、そこに至る道も恐ろしくはないのだろうか。 氷河の指が、震える瞬の唇に触れる。 「だが、その時までは一緒に生きよう。ヒュペルボレオイの王には、エティオピア国王にはヒュペルボレオイ侵略の意思はないと伝える。おまえがヒュペルボレオイの王の評判を探りに来た時に、民が王の悪口を言わぬよう、善政を布けと注進しておこう」 「ヒュペルボレオイの王は、実の父から王位を簒奪した男と聞いた。エティオピアの不死鳥より敵に容赦がなくて、復讐の女神より冷徹で、軍神アーレスより恐れ知らずで――。そんな人が氷河の忠告を受け入れてくれるの」 「多分。ヒュペルボレオイの王も、城から街に出て 父王の圧制に苦しむ民の声を聞いて、父を王位から追うことを決意したんだ。今が最善とは言わないが、以前より国はよくなったと思う」 「氷河がそう言うのなら、いい王様なんでしょう」 「俺が買いかぶっているだけなのかもしれないが」 「そんなことは……。民を苦しめるような王だったら、そんな王には見切りをつけると言った僕に、氷河は賛同してくれたじゃない」 「……そうだったな」 あの時、もしそんなことになったら、瞬は自分に見切りをつけると言っていたのだ。 随分冷めた目を持った家臣だと、あの時は思ったが、その実 あの言葉はまさしく王である自分を律するための言葉だった――。 「ヒュペルボレオイの王は必ずおまえと民の期待に沿う。そうできないような王だったら、俺もさっさと奴を見限ることにする」 笑ってそう告げた氷河を、瞬が真顔で見詰めてくる。 少しの間を置いてから、瞬は、氷河に小さな声で尋ねてきた。 「氷河はヒュペルボレオイの国に帰ってしまうの……?」 「瞬」 「ここにいて。僕は氷河と離れたくない。一緒に死の国に行ってくれるのなら、それまでの時も一緒にいてほしい」 「瞬……」 二人のどちらが恋人の身体を抱きしめようとしたのか――というより、二人は互いに引き合うように互いの身体を抱きしめてしまっていたのかもしれない。 そんなつもりはなかったのに、瞬の細い身体を抱きしめた途端に、氷河は自身の内にある激しい欲望に気付いた。 その欲望が抑え難いことにも気付かないわけにはいかなかった。 瞬も、氷河の熱には気付いているようだったが、瞬は浅ましい欲望を示している氷河の身体を突き飛ばしたりはしなかった。 氷河を自分の許に引き止めておくことができるなら、我が身を差し出してもいいと思っているらしく――瞬は、身体を小刻みに震わせながら、氷河の腕の中から逃げようとはしなかった。 そして、その魅惑的な誘惑を退けられるほど、氷河は理性的な男ではなく――彼は、理性が感情に負けるというより、感情で理性を捻じ伏せてしまう男だったのだ。 「守兵を下がらせたのは おまえだぞ」 「て……適切な指示だったと思うけど……あ……っ」 氷河の手が、瞬の夜着にかかる。 寵童のそれと氷河が誤解した薄布の夜着は、氷河の情熱を押しとどめる防御壁にすらならなかった。 「ああ……!」 戦場では漆黒の甲冑に隠され守られている、エティオピア国王の白く細い肢体。 武器で傷付けることは不可能と噂され、鬼神のごとき強さを誇る無敗の王。 氷河は、不死鳥の異名で呼ばれている偉大な王の身体を刺し貫く最初の男になった。 |