城戸邸の庭。
氷河と一緒に空を見上げたあの場所。
季節もあの時と同じ。
なのに、なぜだろう。
芝生の上に横になり、あの時と同じ空を見上げたはずの僕は、幼い頃に感じた、心が空に吸い込まれていくような あの感覚に囚われることができなかった。

なぜだろう?
あれは幼い子供だけが感じることのできる感覚だったんだろうか。
だとしたら、僕は永遠に、あの懐かしい空を失ってしまったことになる。
二度と戻ることができないかもしれないと思っていた場所に、僕はついに帰ってきたのに――。

不来方こずかたのお城の草に寝ころびて 空に吸われし 十五の心――。まさに今のおまえそのものだな」
ふいに氷河の声が、城戸邸の庭に響いてきた。
氷河はもしかしたら僕がこの場所に帰ってくることを、その時を、ずっと待っていてくれたのかもしれない。
芝生の上に横になっていた僕の隣りに、氷河はあの時と同じように腰をおろした。
「……氷河。それ何?」
「石川啄木の短歌だ。『一握の砂』の中にある」

空に吸われし 十五の心――。
それはきっとアルビオレ先生が言っていた詩のことだ。
じゃあ、それはとても有名な詩――短歌――だったんだ。

「『こずかた』って?」
身体を起こして、僕は氷河に尋ねた。
「地名だ。啄木の故郷、岩手県盛岡の別名らしい」
「地名? 『二度と来ない場所』っていう意味じゃないの?」
「ああ、そういう意味のようだな。昔、その辺りを荒しまわっていた鬼がいたそうなんだが、その鬼が神に捕らえられて、その時に『もう二度とここには来ない』と約束させられたんだそうだ。それにちなんで、その辺りのことを『不来方』と呼ぶようになったらしい」
「そうだったんだ……」

アルビオレ先生は、英訳されたものを読んだと言っていた。
短歌や俳句の類がどんなふうに外国語に訳されるものなのかは知らないけど、アルビオレ先生が読んだ本の訳者は、固有名詞を固有名詞として訳さず、地名を意訳したんだろう。
「まあ、『ふるさと』という意味だと思っていいんじゃないか。幼い頃を過ごした懐かしい故郷の青い空。その空を見上げていたら、心が空に吸い込まれそうになった15歳の頃」
「ふるさと――」

そうか、帰ってきたんだ、僕は。
ここが僕のふるさと。
青い空の下にある、僕の懐かしいふるさと。
そのはずなのに――。

今 僕の心はあの空に吸い込まれていかない。
啄木が15歳の頃にその感覚を味わったというのなら、今の僕にだって、その感覚は生じてもいいはずだ。それなのに。
あんまり色々なことを経験したせいで、僕は、普通の人が15歳の頃に備えている感受性を失ってしまったんだろうか。
だとしたら、それは――とても寂しい――悲しい。
聖衣を手に入れ、兄さんや氷河に生きて再会し、僕は再び希望をこの手に取り戻したはずなのに。
自分の無力を嘆くことしかできなかったあの頃に比べれば、今の僕はずっとずっと幸せな人間になっているはずなのに。

僕が沈んだ表情になったから――多分 氷河は、彼のいつもの癖で、僕を慰め力づけようとしてくれたんだろう。
氷河は突然僕に、
「よかったな」
と言った。
「え?」
「一輝のこと」
「あ、うん」

そう、それは“よかったこと”。
兄さんが生きて、元の優しく強い兄さんとして僕の側にいてくれる。
それは、他のどんなつらいことも悲しいことも帳消しにしてくれる、最高に“よかったこと”だ。
「ありがとう。僕、氷河にすごくすごく心配かけたよね。なのに――」
僕は、ひどく気まずい気分になった。
自分が氷河に対して随分 恩知らずな真似をしていたことに気付いて。

兄さんがいない時には、氷河に甘えて、氷河に庇ってもらって――なのに兄さんが戻ってきたら、僕は兄さんべったりになっていた。
氷河は僕のために兄さんを憎むことさえしてくれたのに。
恩知らずの僕を責めもせず、氷河は首を横に振って寂しそうに笑った。
「俺は、おまえに、一輝ほどには幸せな笑顔を作らせてやれなかった」
「それは……僕は――」

それは氷河のせいじゃない。
僕が――僕の心が弱かっただけ。
僕が自分の不幸にだけ気をとられていただけ。
悪いのは、氷河の気遣いを知っていたのに、氷河の優しさをわかっていたのに、それを幸福なことだと思えなかった僕の方――笑えなかった僕の方だ。
僕は、僕が幸福になれないことで、氷河を傷付けていたんだろうか――?

「ごめんなさい……」
僕に謝られることは氷河の本意ではなかったんだろうけど、僕が彼の思い遣りを踏みにじり続けていたことを謝らずにはいられなくて、僕は氷河の前に居住まいを正し、氷河に謝罪の言葉を告げた。
そして、氷河の瞳を見上げ、見詰め――くらりと軽い目眩いに襲われた。

これは何だろう。
僕は、氷河の優しさを踏みにじった。
ずっと踏みにじっていたんだ。
僕は氷河に罪悪感を感じるべきで、なのに、そんな気持ちとは全然違う気持ちが僕の中に生まれてくる。
僕は氷河の瞳に出会った途端、強い衝撃に胸を衝かれて、そして、氷河の瞳に見入ってしまっていた。

氷河の瞳は空の色をしている。
綺麗で澄んでいて、なのにすごく深い。
その、空の色をした氷河の瞳が、僕をじっと見詰めている。
僕は、氷河の瞳の中の空から目を逸らせない。
子供の頃、空を見上げていた時と同じ気持ち――同じ感覚に、僕は囚われた。
僕の身体から僕の心が離れて、氷河の瞳の中に吸い込まれてしまいそうになる――。
まるで、あの頃の僕の空が、氷河の瞳の中にあるみたいだった。
僕の心を自由にしてくれる、僕の本当の居場所。
あの空を、僕はもう失ってしまったんだと思っていたのに、こんなところに僕の空は残っていた。

吸い込まれそうな空の青――。
気が付いたら、僕は氷河に抱きしめられ、そしてキスされていた。
キスなんかしたこともないのに、僕は、僕の口中に忍び込んでくる氷河の舌に驚きもせず、それどころか自分から氷河の背に腕をまわして、彼にしがみつくことさえしていた。
強く吸われて、喉が少し のけぞる。

「わっ!」
僕が我にかえって、氷河の身体を押しやろうとしたのは、僕の唇を離れた氷河の唇と舌が僕の喉許に下りてきた時で、氷河がそれを更に下方に移動させようとしていることに気付いた時。
まるで魔法が解ける呪文を耳に放り込まれたみたいに、僕は正気に戻った。

氷河もそれは僕と同じだったようで――。
僕たちは二人して何かの魔法にかけられでもしたかのように抱きしめ合い、キスし合っていたみたいだった。
「瞬、すまな――」
氷河が謝ることなんてない。
そう思いはしたけど、僕は自分のしたことが恥ずかしくて、氷河に何を言うこともできず、僕の腕に添えられていた氷河の手を振り払って、その場から逃げ出した。






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