「なに……?」 これが重大事でないのなら、オリュンポスの大神ゼウスがギリシャの神々全員を引き連れて人間界に攻め入ってきたという知らせも重大事ではないだろう。 自分への憤りと情けなさと失望、自尊や卑下や自虐――沙織さんの言う重大事は、俺の中にあったすべての感情を一瞬で消し飛ばしてしまった。 瞬の耳が聞こえていない――だと? 沙織さんは、半ば呆けているような俺を見やり――瞬ではなく、俺に向かって――瞬がその聴力を失うに至った経緯を語り始めた。 「肉体的に損傷を受けたということではないわよ。精神的なもの。前の戦いの時に、瞬の攻撃に瀕した敵が、誰かの名前を叫んだそうなの。瞬がその悲鳴じみた声を聞いたのは既にチェーンを放ったあとで、瞬は攻撃を止められず、彼は地に倒れ伏した。彼が叫んだ名が肉親のものか恋人のものだったのか、それはもう確かめようがないのだけれど――結局 瞬は彼にとどめを刺すことはできなかった。瞬は急に手足が動かなくなって、ずっとその場に立ち尽くしていたんだけど、しばらくして あなたが瞬の側に駆け寄っていった時には、もう瞬の耳は聞こえなくなっていたらしいわ」 「聞きたくないものを聞かされてしまったせいで――瞬の無意識が何も聞かずに済むようになることを望んだということですか」 紫龍が尋ねると、沙織さんは縦にとも横にともなく首を振り、言った。 「瞬は繊細ではあるけれど、弱い子ではないわ。ショックによる ほんの一時的なものだと思うのだけれど。お医者様もそうおっしゃってらしたし」 それで沙織さんは、一見したところは健康そのものの瞬に病院行きを命じたのか。 だからアテナは、この戦いに同道することを、瞬に禁じた――。 「あなた方には心配をかけたくないし、そんなことで あなたたちと共に戦えなくなったりするのは、それこそ死ぬより つらいことだからと、口止めされていたのだけれど――」 アテナ神殿内の空気に染み入っていくような沙織さんの声も、今の瞬には聞こえていないのだろう。 瞬は相変わらず、瞼を伏せ、顔を伏せたままだった。 瞬の耳が聞こえていない――。 それで、このところの瞬の言動は、どこか ちぐはぐだったんだ。 発声機能が失われたわけではなくても、自分の声を聞きとることができないのでは、声を出すのも容易な作業ではなくなる。 なのに、俺のために無理に話そうとしたから、瞬はあの時、あんなに大きな声や小さな声で――。 瞬の耳が聞こえていないということは、つまり、俺の一世一代の告白も瞬には全く聞こえていなかったということになる。 そのことで俺に心配をかけたくなかったから、瞬はただ黙って にこにこ笑っているしかなかったんだ。 瞬の気持ちは――わからないでもない。 だが、それでも、やはり知らせてほしかった――と思う俺は、間違っているんだろうか。 それが、仲間に同情を求めない、仲間に心配をかけたくないという、瞬の優しさで強さだということはわかっている。 だが、俺たちは仲間じゃないか。 瞬の身に何かあったら、その分 俺たちが力を貸し、瞬を支え、欠けたところを補い合って戦い生きるのが、俺たちだろう。 俺と瞬の立場が逆だったなら、瞬だって、当たりまえのことのように俺に手を差しのべ、自分の持てる力を俺に分け与えていたはずだ。 いや、俺たちが仲間だというのなら、俺こそが なぜ瞬の異変に気付かなかったんだ。 耳が聞こえていないなんて、普段の生活でも支障だらけだったはずなのに、いくら瞬が取り繕っていたにしても、その様子がおかしいと気付かない俺の方がどうかしている。 瞬の様子がおかしいことに俺が気付かなかった訳。 それは、大馬鹿者の俺にも すぐにわかった。 俺が、瞬を見ていなかったからだ。 自分の気持ちだけに気をとられて、それ以外の何物にも目を向けていなかったから。 俺は瞬を見ていなかったんだ。 聴力、視力、握力、背筋力が常人の3、4倍あったって、そんなことは全く無意味だ。 見ようとしなければ、聞こうとしなければ、手を差しのべ、傷付いた仲間を支えてやろうとしなければ――力だけがあったって何にもならない。 自分の気持ちしか見えていない俺が瞬に好きだと告げたところで――もし耳が聞こえていたって、瞬は俺を受け入れてはくれなかっただろう。 俺がしていたのは、俺ひとりのためだけの恋だった。 こんなに瞬に傷付いてほしくないと思っているのに、傷付いている瞬を見ていることが こんなにつらく感じられるのに――俺は、瞬が傷付いていることにさえ気付いていなかったんだ。 瞬が、顔を伏せて、アテナと仲間たちの前に立っている。 そこが聖域の中でも至聖の場所で、アテナがそこにいることを失念していたわけではないんだが――いや、俺はやはり忘れていたんだろう。 俺は、瞬を抱きしめた。 何を言っても聞こえないのなら、抱きしめてやるしかない。 瞬は驚いて――俺の手から逃れようと微かに身じろぐこともしたんだが、俺に瞬を離す気がないことを悟ると、まもなく瞬は俺の胸の中で大人しくなった。 そして、俺の胸に頬を寄せてくる。 「俺はおまえが好きなんだ。……気付いてやれなくて、悪かった」 聞こえていないことは わかっている。 それは、答えを期待しての告白じゃなかった。 ただどうしても言いたくて――答えや報いを得られなくても、俺は瞬の側にいて、瞬を支えていてやりたかった。 絶対に、その権利だけは失いたくなかったんだ。 自分を、本当に愚かな男だと思う。 それでも、俺は瞬なしではいられないし、瞬が側にいてくれさえすれば、俺は瞬のために少しはマシな人間になろうと思うこともできるだろう。 瞬の心を思い遣り、瞬を守り支えてやれる男にだって、いつかはなれるかもしれない。 今はその可能性しか持っていない、本当に情けない男にすぎなくても。 答えを望まず、ただ祈るような気持ちで、すがるような気持ちで、俺はその言葉を瞬に告げたんだ。 瞬の気持ちを知りたいと、それだけを思い詰めていた時には決して与えられなかったもの――が、その時 突然、俺の耳と心の中に飛び込んできた。 「僕も」 囁くような声ではあったが――何というか、程よい音量の優しい響き。 瞬の声、瞬の言葉、瞬の答え――が。 「聞こえているのか?」 「あ……」 驚いた俺が、ほとんど反射的に尋ねると、瞬は、一瞬の間をおいてから、その瞳をぱっと明るく輝かせた。 そして、瞬は、 「聞こえる!」 と嬉しそうに叫んで、改めて俺の胸の中に飛び込んできた。 |