カタルシス






「あれ、これも違うみたい」
一度は台紙の上に置いたアクリル製の空色のピースを、僕はもう一度つまみあげた。
一般に出回っている圧縮パルプ製のものとは少し手触りと光沢が違って、僕が手にしているピースには硬質的な透明感がある。
この作業に取り掛かる前から、僕はこのパズルの完成が楽しみでならなかった。

ラウンジの床に広げられたジグソーパズルは500ピース。
世の中には10000ピースのジグソーなんてものも存在するそうだから、そういうものに比べれば これはとても ささやかで可愛いレベルのものなんだろう。
でも、普段やりなれていないせいで、四隅のピースを決めたあと、僕はなかなか先に進めずにいた。

「これだけ時間をかけて四辺のピースを埋めることもできずにいるというのは、少々問題だぞ。コーナーに置いた4つのピースがそもそも間違っているということはないのか」
『これだけ時間をかけて』って紫龍は言うけど、僕がこのパズルを始めたのは ほんの1時間前。
それで4つの辺を埋めることができないのは――遅いのかな、やっぱり。
でも、僕はこのパズルを時間をかけてゆっくり完成させたいんだから、これでいいんだよ。

「俺、そーゆーパズルってしたことねーけどさ。一面ただの青空だけのジグソーなんて、初心者がやるもんじゃねーんじゃねーの?」
紫龍より短気な星矢は、僕の悠長な仕事振りに 優雅に苛立っていられる次元を早くも通り越しちゃったみたい。
星矢のアドバイス(?)は、婉曲的に『完成させられないに決まってるから やめた方がいい』って言ってるみたいな口調だった。
うん、星矢の言い分は至極尤もだけどね、でも、僕はこれを途中で投げ出すわけにはいかないんだ。

「ただの青空じゃないよ。これは完成すると、空の真ん中に飛行機雲が『 I love you 』って文字を書いてる絵になるんだって」
「I love you だあ?」
「それに、この空の色、氷河の瞳の色と同じで綺麗でしょ。見てるだけで楽しいもの」
「へぇへぇ」

そんな面倒なプレゼントを僕に贈ってくれたのが誰なのかを察したらしく、星矢は大仰に肩をすくめると、そのまま身体をソファの中に沈み込ませてしまった。
でも、僕が頑張っている理由はわかってくれたのかな。
この作業を僕に放棄させるのは諦めてくれたみたい。
「まあ、平和でいいけどね」
って、星矢は、いかにも平和を謳歌している人間らしい声で、のんびりと呟いた。

「瞬。あまり根を詰めるな。そんなふうに下ばかり向いていると、頭に血がのぼるぞ――いや、下がるのか、この場合」
僕にこのパズルを贈ってくれた人が、まるで それまでの僕と星矢たちのやりとりを聞いてなかったみたいな響きの声で、僕に忠告を垂れてくる。
聞いていなかったはずはないんだけど――氷河は、到底 迅速とは言い難い僕の仕事振りに不満を抱いてはいないみたいだった。

「あ、うん」
確かに少し頭が重くなっていたから、僕はいったん顔をあげて、深呼吸をした。
それから、両手を首の後ろにまわして、頬にかかっていた髪を一つにまとめる。
どこかで紐を調達してきて、このまま結んじゃった方がいいかな――って、僕が考え始めた時、紫龍がふいに、
「瞬、髪をあげると見えるぞ」
と言ってきた。
なんていうか――意識して さりげなさを装っているみたいな声と態度で。
「え?」
何のことを言われたのかがわからなくて、僕は肘掛け椅子に腰掛けている紫龍の方を振り返ったんだ。
僕の視線が仲間の顔に辿り着く前に、紫龍の省略した目的格が僕の耳に届けられる。
「キスマーク」
僕は、即座に自分の髪を掴んでいた10本の指を ぱっと広げた。

別にね、それは紫龍たちに知られて困ることじゃないし、紫龍たちが僕たちの関係を知ってるってことは、僕も知ってる。
でも、“知られる”と、“実際に見られる”は、全く次元の違う問題だよ。
遠く離れた場所で行なわれている戦いのことなら、悠長にその是非を語ることのできる人が、実際に戦いの中に我が身を置いたら、声も言葉も失ってしまうみたいに。
――これはちょっと的外れな たとえかな。

とにかく僕は、紫龍のきわどくも親切な指摘を受けて 目一杯慌てることになった。
慌てたところで何ができるっていうわけでもなく――僕は頬を火照らせて瞼を伏せることしかできなかったけど。
「ったく、これが地上で最も清らかな人間様の正体かよ。ハーデスも目が曇ってたんじゃないのか」
星矢がそんなことをぼやかなかったら、きっと僕は その日一日、今更ながらな羞恥心のせいで 紫龍たちと目を合わせられずにいたと思う。
幸か不幸か、星矢がそう言ってくれたから、僕は自分の顔を上げることになってしまったんだ。

『地上で最も清らか』って、それは僕に対して言ってるの?
それはどういう冗談なのか――そういうジョークが最近どこかで流行ってるんだろうかと、僕は首をかしげた。
「その、『地上で最も清らか』って、どこから出てきたフレーズなの」
「あれ、おまえ聞いてねーの? ハーデスがおまえを自分の依り代に選んだのは、おまえが地上で最も清らかな人間だからだ――っての」
「……なに、それ」
「なに――って、言葉通りだと思うけど」

僕は、そんなの初耳だった。
ハーデスが、僕を彼の魂の器として選んだのは、僕が弱い人間だからだと――そう、僕は思っていた。
若くて弱くて、心の内に迷いばかりを抱えていて、だからハーデスは僕を支配しやすい人間だと見込んで、あの愚行に及んだんだと。
口惜しいけど、僕はそれで あの無様な仕儀(僕にとってもハーデスにとっても)を納得していた。
ハーデスは適切な人選をしたとも思っていた。
それが何?
僕が清らかだから?

僕は混乱して――混乱のあまり 手にしていたパズルのピースを握りつぶしてしまいそうになっている自分に気付いて――慌てて自分が摘んでいたものを手放した。
これは氷河からプレゼントされた大切なもの。
一かけらだって壊してしまうわけにはいかない。

僕は、震える手で台紙の周囲に散らばしていたピースをケースの中に収め、それを台紙と一緒にサイドボードの棚の中にしまった。
パズルを無事にしまい終えることができた時、僕は多分 安堵の息を洩らした――と思う。
「僕、疲れた。ちょっと水 飲んでくる」
「え、おい。瞬」
無言で行なわれた僕のその一連の行動は、星矢たちの目にひどく不自然で唐突なものに映ったんだろう。
星矢は、まるで訳がわからない……っていうみたいな目をして、ドアに向かって歩き出した僕を見詰めてきた。
でも、僕は、そんな星矢の視線を無視して、ひとりラウンジを出たんだ。

「俺、何かまずいこと言ったか」
という星矢の戸惑った声が、閉じたドアの向こうから聞こえてくる。
「言ったかもしれないな」
続いて、紫龍の溜め息混じりの声。
「だって、『清らか』って、褒め言葉だろ?」
「自分を清らかだと思い込んでいる人間にとってはそうかもしれないが、瞬は自分を清らかな人間だとは思っていないんだろう」
紫龍に言われて、星矢は黙り込んでしまったみたいだった。

紫龍の言う通り。
僕は、自分が清らかな人間だと思ったことは一度もない。
一度もないどころか、『清らか』っていう言葉が 人間を形容するために使われることがあるなんて、そんな可能性すら考えたことがなかった。
まして、僕がそう・・だなんて。
僕は――むしろ、地上で最も汚れた人間だろう。
戦いに身を投じ、実際に自分の手で敵を倒し、そのくせ、口では理想を語り、心は幸福な人間になりたいと叫んでいる。

地上で最も清らかな人間だから僕を依り代として選んだだなんて、それはいったいどういう皮肉なんだ?
この侮辱。この皮肉。
ハーデスが本気でそんなふうに思っていたのだとしたら、僕はポセイドンをたばかったカノンより上手に神を騙したことになるよ。

いったい僕のどこが清らかだって言うんだろう。
僕の何を見て、ハーデスはそんな勘違いをしたの?

人当たりがよくて、人の意見に逆らわないところ?
そんなの、自分の非力を知っているから、人と争いを起こしたくないだけのことだよ。

人を傷付けたくないと思っていること?
そんなの、誰だってそうだろう。
身体でも心でも、一度でも他人に傷付けられた経験のある人なら誰だって、人間は傷付いたら痛みを感じるんだってことを知っているはず。
誰かを傷付けて、傷付け返されたら、それも痛いもの。
そんな事態を避けるためには、自分が人を傷付けないところから始めるのが筋ってものだ。

人を――人間の善良性を――信じようとするところ?
疑うより楽だからだよ。
人を疑っている自分に自己嫌悪を覚えたくないから。
人を疑わずにいれば、誰かに騙されることがあっても、僕は被害者でいられるから。

僕は、傷付いている人がいたら、助けようとする。
でも、それは多分、そういう人を見捨てて、見捨てた事実に いつまでも良心の呵責を負わされることになるのが嫌だからだ。
そして、自分を冷酷な人間だと思いたくないから。

そんな僕の何を見て、ハーデスはどうしてそんな馬鹿げた勘違いができたんだ !?
――考えれば考えるほど、自分の醜さが嫌になって――僕は、その日、氷河から贈られた青空の前に戻ることができなかった。






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