「『清らか』って、僕みたいな人間のことをいうんじゃないよね?」
僕の中から性器を引き抜くと、氷河は満足げな長い息を洩らして、僕の隣りに仰向けに横になった。
氷河の胸の上下が少し緩やかになったのを確かめてから、僕はかすれた声で氷河に尋ねてみたんだ。
というか、氷河にそう尋ねてから、僕は自分の声がかすれていることに気付いた。
そんなに――喉が嗄れるほど泣き叫んだ記憶は、僕にはなかったんだけど。
その時・・・の僕がどんなふうでいるのかなんて、僕はほとんど憶えてないから、実際のところはどうだったのか、それを知ってるのは氷河だけなんだけど。

僕の身体の中は、氷河の名残りのせいで まだ疼いていた。
でも、僕は、身体の疼きよりも自分の心の疼きの方を早く――先に――静めてしまいたかったんだ。
ハーデスの馬鹿げた勘違いに、僕はそれだけ腹を立てて――混乱していたんだろう。
氷河は、急にそんなことを言い出した僕を怪訝に思ったふうもなく、むしろ僕がそう言い出すことがわかっていたみたいに落ち着いた声で、
「『おまえは清らかな人間だ』と言われれば、大抵の人間は納得すると思うが」
と答えた。

「どこかの神様が僕の上辺うわべに騙されるのは まだ我慢ができるけど、氷河までがそんなことを言うのは――」
『許せない』『耐えられない』『腹が立つ』――適切な述語を、僕は咄嗟に選ぶことができなかった。
氷河は、ハーデスなんかよりずっと、僕という人間を知ってる。
氷河が、どこかの冥府の王様みたいに馬鹿げた勘違いをいるはずがないってことが、僕にはわかっていた。
現に、『僕が清らかだという見解に納得する大抵の人間』の中に 自分自身が含まれるとは、氷河は一言も言っていない。

「俺は何も言ってやれない。『その通り、おまえは清らかな人間じゃない』と言っても、『おまえは清らかな人間だ』と言っても、おまえは傷付きそうだからな。それとも、おまえは、俺に『おまえが清らかでないわけがない』とでも言ってほしいのか?」
「僕が自分を清らかじゃないって言うのは、氷河に『そんなことはない』って言ってほしいからじゃないよ!」

きっぱり そう言い切ってしまってから、僕は、本当にそうだろうかと自分自身を疑った。
そう言ってもらいたいわけじゃないのなら、そもそも僕は こんな話題をこんな場面で持ち出したりなんかしないはずだもの。
僕が清らかな人間でないことは、誰より僕自身がよく知っている。
だから、僕は、その件に関する他人の肯定も否定も必要としていない。そのはずだ。
なのに僕は、それをわざわざ口にした――。

「ほんとはそうなのかもしれない……。僕は氷河に同情されたいだけで――自分の自虐を、氷河に否定してもらいたいだけなのかも……」
だから、こうして、氷河と身体を交えた直後にそんな話を持ち出す。
明日もこれ・・をしたいのなら、傷付いている僕を慰めて――って、僕は氷河に暗に求めてしまってるのかもしれない。

そんな自分が嫌で、僕は ぎゅっと唇を噛みしめた。
自分がそんなみっともない真似をしてるってことを認めるのは つらいよ、やっぱり。
それが紛う方なき事実だったとしたら、なおさら。
「これまでだって、僕は何度も氷河に、僕は落ち込んでる、苦しんでる、迷ってる、悩んでる、悲しんでる――って、繰り返し泣きついてきたもの。僕がそんなことを氷河に訴えるのはみんな、氷河に同情して慰めてもらいたいからなのかもしれない。だから、僕は、何かあるたび いちいち氷河の前で傷付いてるポーズをとっちゃうだけなのかも――」

「まあ、弱音を吐く大抵の人間はそうだろうが――それでいいじゃないか。他人の同情を求めている人間には、他人の同情が必要なんだ。『同情してくれ』と直截的に言わず、遠回しにそれを求める行為が嫌らしいだけで、彼等はある意味 正直なんだろう」
氷河は多分、わざと『彼等』という言葉を選んで そう言った。
そういうみっともない真似をするのは 僕ひとりじゃないんだってことを僕に知らせて、僕の心を和らげるために。
でも、僕が『彼等』の中の一人であることは、否定しようのない事実だ。

「氷河は……人間のそういう弱さや卑劣を許すの?」
「相手によるな」
そう言って、氷河が僕の肩を抱き寄せる。
氷河は、『彼等』の中の一人である僕を、今夜も慰めようとしてくれている。
さもしい僕は、自分の肩に置かれた氷河の手の感触に、ほっと安堵した。

「『僕は今 苦しんでいる』と言っているのがおまえなら、俺はおまえを懸命に慰め励ます。どうでもいい奴がそんなことを言って俺の同情を引こうとしたら、『勝手にやってろ、見苦しい』と思って終わりだ。俺に同情を求めてくる人間が、俺にとってどれだけ価値のある相手なのかが、判断の重要ポイントだろうな」
「そんな無様なことをしても――どうして、僕なら許すの? 僕が氷河の仲間だから? 僕が氷河と一緒に眠るのを拒むようになるかもしれないって思うから?」

僕は何を言ってるの。
そんな、氷河を侮辱するようなこと。
そんなことを言って、氷河に嫌われたらどうするの。
氷河と一緒に眠ってもらえなくなったら、困るのは僕の方なのに。
氷河に慰めてもらえなくなったら、僕のつらさは いつまで経っても癒されない――。

僕はその言葉を、口にするなり後悔したけど、幸い氷河は僕の失言を不問に処してくれた。
僕の発言を “心にもないこと”と思ったからじゃなく、多分、僕がその発言を後悔していることに気付いたから。
氷河は、ハーデスより僕をずっと知ってる。
知った上で、僕に寛大だ。
僕が氷河に甘えちゃうのは、きっとそのせいだよ。
氷河が優しすぎるから、甘えちゃいけないって いつも思うのに、僕は氷河に甘えずにはいられないんだ。

「それもあるが――おまえを失ったら、俺が・・生きていけないからだ。おまえが壊れていくのを黙って見ていることは、俺自身の・・・・破滅を 手をこまねいて眺めているようなものだ。おまえがいてくれた方が、俺の・・人生は楽しいものになるしな」
「……」
自然なふうを装って、氷河は妙に『俺』を強調してくる。
『僕のため』じゃなくて、『俺のため』。
でも、氷河の言う『俺のため』は、結局は『僕のため』だ。

「氷河は優しい……。自分のためだなんて言って、本当は――」
「俺は、優しいんじゃなくて、常識を知っているんだ」
「うん……」
氷河が常識人だなんて、そんなこと言われたら、いつもの僕なら、それは何の冗談なのかって笑い飛ばすとこだけど――。
今 この件に関しては、氷河の主張を認めないわけにはいかない。

『俺のため』じゃなくて『おまえのため』っていう言い方をされると、言われた方の人間は そこに偽善や押しつけがましさを感じるようにできている。
その傾向を“常識”の一つと言っていいのかどうかっていうことについては少々問題があると思うけど――その“常識”を承知している氷河は、賢明な常識人らしく 『おまえのため』っていう言い方を避けるんだ。
それは、常識的な対応っていうより、僕のた・・・めに・・発揮される気遣いで、優しさで、そして技術テクニックだ。
やっぱり氷河は優しいんだ――僕と違って。

「優しい振りをしているだけ、人を信じる振りをしているだけ――とおまえは言うが、それはおまえが優しい人間でありたいと望み、人を信じることのできる人間でいたいと望んでいるからだろう。おまえは素直なんだ。自分の心を疑って裏を見て、だがもう一度 正道に戻ってくる。結局おまえの言動はいつも まっすぐだ」

「だとしても――-僕みたいに ひねくれている人間には、『清らか』なんて評価は痛烈な皮肉で侮辱だよ」
「おまえは考えすぎない方がいいな。『無垢』と『清らか』は全く違うことだぞ」
それは、僕がもう無垢ではないということだろうか。
それはそうだ。
僕はもう無垢な人間じゃない。
僕の手は、幾度も人の血で濡れた。

この手を汚れていると思うようになる以前、僕がまだ無垢な子供だった頃に戻ることができるのなら、僕はどんなことでもするよ。多分。
たとえ“無垢な僕”が、両親に愛されている自由で快活で幸福な子供じゃなくても、非力で、貧しくて、毎日泣き暮らしているような子供だったとしても、僕は あの頃に戻れるものなら戻りたい。
あの頃の僕の涙は、なんて幸福で無邪気な涙だっただろう。
あの涙を取り戻すことは、でも、決して叶わない夢で、だから、今は僕は氷河にすがることしかできない。
僕はそういう目を――すがるような目を、氷河に向けた。

氷河の目が、僕のその視線を捉える。
「確かに、一輝に守られているだけの無垢で幸せな子供でいられたら、おまえは、今 おまえを苦しめている苦しみを知らないままでいられただろうとは思うが」
氷河が、まるで僕が何を考えていたのか見透かすみたいに そんなことを言い出すから、僕はびくりと大きく身体を震わせた。
氷河の目は、時々 恐いくらい鋭い。

「僕が、兄さんに守られているだけの無垢で幸せな子供でいても、氷河は僕を好きになってくれた?」
「いや」
一瞬のためらいもなく あっさりと、氷河は僕に『否』の答えを返してよこした。
「そういう無垢な奴は、むしろ癇に障るだけの存在だからな。無垢というのは、それを備えている者が子供だった時に かろうじて許せる性状だろう。分別があってしかるべき年齢になった人間が無垢なままだったら、それはもう救い難い不幸だと思うぞ。無垢なだけの人間の優しさには、本当の思い遣りがなくて不愉快だ。それは本能で優しいようなものだろう。人間の行為としては、全く価値がない」
「あ……」

本能で優しく振舞うことには価値がない――のなら、氷河は、『人間の優しさは努力して為されるものであるべきだ』っていう考えでいるんだろうか。
心の奥底には暗いおりを潜ませていても、それを隠して優しく振舞うことは偽善でも罪でもないと?
そうすることにこそ価値があると?

それでもいいと氷河が言ってくれるのなら――僕はそういうものになら、きっとなれるよ。
無垢だった頃の僕に戻ることはできなくても、そういう優しさを持った人間になら、きっとなれる。
それどころか――汚れを知らず無垢で幸せだった頃の僕に戻ることが、僕が氷河を失うことに繋がるっていうのなら――だとしたら、僕は、絶対に今の自分を捨てようとは思わない。
たとえ今の僕が、血に濡れた手を持ち、自分の醜さを否定できない哀れな人間だったとしても、僕は今の自分を捨てられない――。

「無垢でなくなることで、氷河を手に入れることができたのなら、僕は今の自分を喜ぶべきなのかな」
「いくらでも喜んでいいぞ。俺はおまえのものだ」
そう言うと、氷河は身体の向きを変え、僕の身体に覆いかぶさるようにして、僕にキスをしてきた。
氷河の膝が僕の脚の間に入り込み、僕の身体を押し広げようとする。
氷河の手が、僕の内腿を身体の中心に向かって撫で上げていく。
氷河の手は温かい。
信じられないほどデリケートに動く指も、胸も腕も温かくて、氷河は、その何もかもがすごくすごく気持ちいい。
「ん……」
無垢でなくなることで、これ・・を手に入れることができたっていうのなら、僕はこの現実を喜ばないわけにはいかないね。確かに。






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