その日、アテナ神殿の一画にある青銅聖闘士用の宿舎に戻った瞬は、もちろん、カシオスの切ない片思いの件を仲間たちに知らせることはしなかった。
だが、カシオスが優しく親切な人物であることや、彼の家事の有能振りについては、まるで我が事のように得意げに細大漏らさず報告したのである。
いったい何が瞬をそんなに喜ばせていのかと訝る星矢たちに、瞬は最後には、
「僕、カシオスをお嫁さんにしたいなー」
と言い放つことまでしたのだった。

冗談だとわかっていても、さすがに星矢たちは瞬のその発言には目を剥いてしまったのである。
瞬が口にした冗談を笑ってやろうとした星矢の顔は、誰がどう見ても思いきり引きつっていた。
氷河はといえば、瞬が浮かれている理由が今ひとつ得心できず、眉間に皺を寄せている。
そして紫龍は、凶暴粗暴と思われていた人物の優しさに触れて嬉しそうにしている瞬よりも、見るからに不機嫌な顔をした金髪男の方を、面白そうに眺めていた。

「瞬はすっかりカシオスと意気投合してしまったようだが――」
紫龍が、いかにも腹に一物ありそうな笑みを浮かべて氷河に話しかけていく。
「妬かないのか?」
「妬くだと? この俺が、あのタコにか? いったいなぜ俺がそんなことをしなければならないんだ」

人間が『あの人が好き』と言う時と『パンダが好き』と言う時では、『好き』の内容に明確な違いがある。
そして、氷河にしてみれば、カシオスは『人間』ではなく『珍獣』の方に分類される種類の生き物だった。
なぜパンダに妬く必要があるのかと、彼は紫龍の挑発を鼻で笑ってみせたのである。
いくら気が合ったにしても、命をかけた戦いを共にしてきた仲間と同レベル以上の親近感を、瞬がパンダに抱くはずがないではないか。
瞬が心を許す真の仲間は、瞬と共に城戸邸に集められ、瞬と同じ時に同じ修行に耐えて聖闘士になった者たちだけに決まっている。
そもそもカシオスは、瞬の仲間・瞬の友人という肩書きにふさわしい容姿も力も有していない。
更に言うなら、人間というものは自分より優れている何かを持っている者に対してしか妬心を抱くことができないようにできている。
カシオスはそのレベルに達していないではないか。
――と、氷河は思っていた。

とはいえ、「もしかしたら瞬はカシオスを『珍獣』ではなく『人間』の方に分類しているのではないか」という不安が、氷河の中にかけらほども生まれなかったというわけではない。
氷河にそんな不安を抱かせるほど、『カシオスが優しいこと』を喜ぶ瞬の笑顔は輝いていたのだ。

「瞬は面食いじゃないぞ。おまえの最大の武器は、瞬に対しては効力を発揮しない。『恋は目でなく心で見る』ともいうしな。瞬は、おまえよりずっとカシオスと気が合っているようだ」
「……」
この長髪男は何が言いたいのか。
そんなことを言って、仲間に何をさせようとしているのか。
彼の目的はわからないでもなかったのだが、氷河はあえて紫龍の挑発を無視した。

「どうせ俺たちは1週間後には日本に帰る」
今回の聖域来訪は、いってみれば各国在住の社員が社員懇親会出席のためにギリシャ本社に集結したようなもので、青銅聖闘士たちの本来の生活・活動の場は極東の島国である。
長く会うことができずにいれば、瞬は異国でできた気の合う友人のことなど すぐに忘れてしまうだろう――というのが、氷河の考えで希望だったのだ。
瞬は、そして、瞬にふさわしい仲間たちと時を過ごす日常に戻る――というのが。
氷河のその希望は叶ったのか叶わなかったのか――。


帰国の日まで、瞬は毎日カシオスの許を訪ねていた。
親睦を深めることで益を得られそうな相手は他にいくらでもいそうなものなのに、瞬はそういった“益”のある人物たちと近付きになることに、さほどの価値を見い出していないらしい。
瞬とカシオスはすっかり仲のよい友人同士になり、瞬が日本に発つ時にはカシオスがアテナ神殿まで見送りにやってきた。

「今度聖域に来た時には、絶対に瞬の彼女を俺に紹介するんだぞ。約束だぞ」
「うん。必ず」
とか何とか、氷河には訳のわからないことを言い合って、二人は固い握手を交わしていた。
ピンクのスイトピーにタコが絡んでいるようにしか見えない その光景に、氷河は激しい頭痛を覚えることになったのである。
それは、氷河の美意識に大いに反する光景だったのだ。
そんな氷河の気も知らず、瞬は、せっかく親しくなることのできた友人との別れを、心から惜しんでいるようだった。

激しい頭痛に耐えつつも、聖域をあとにする その日、氷河はひとまず心を安んじていたのである。
氷河は決して、自分がタコやパンダに妬心を抱くことになる事態を恐れていたわけではなかった。
瞬が心優しいタコに対して深い友情を感じることになったとしても、特に問題はないと考えていた。
彼が懸念していたことは、ただ一事。
心優しいタコが、身の程知らずの思いに囚われて、ピンクのスイトピーに襲いかかる――という事態だけだったのだ。
遠く海を隔てた場所に二人がいれば、その懸念も不要になる。
いくらタコでも――タコだからこそ――大西洋を横断して日本にまでやってくることは不可能だろう。

帰国した氷河は、だから、これでタコ絡みの騒動は落着したものと決めつけていた。
日本在住の青銅聖闘士の上には、元の平穏な日々が――新たな敵が現われない限りは平穏な日々が――戻ってくるものと信じていたのである。
しかし、それは、アテナの聖闘士にあるまじき大きな油断だった。
むしろ氷河は日本への帰国を果たしてから正式に(?)、瞬と心優しいタコの奇怪な友情騒動に巻き込まれることになってしまったのである。

青銅聖闘士たちが日本に帰国し、城戸邸での生活を再開した2日後。
瞬が、真剣な目をして、
「氷河、これを着てください」
と、氷河に懇願してきた。
瞬がそう言って氷河の前に差し出したものは、3Lサイズのピンクのワンピース。
丈は膝下丈、胸元にはヒヨコとニワトリのアップリケ。

瞬にそれを着てくれと言われた10秒後、某白鳥座の青銅聖闘士は、白目を剥いて その場にひっくり返ってしまっていた。






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