早く――1秒でも早く笑ってくれと、瞬は大理石の床を見詰めながら願っていた。
氷河は、ここで自分がどう振舞うべきなのかを知っているはずだった。
もしここで仲間の冗談を冗談ではないものにし、『俺はおまえの気持ちには応えられない』などと真面目な答えを返したりしたら、これから二人が仲間同士として戦い続けていくことに支障が出るかもしれない――ということは。
だから、瞬は、氷河が1秒でも早く笑ってくれることを祈り、願っていたのだ。

だが、氷河は瞬の祈りに応えてくれなかった。
代わりに彼は、
「俺は、おまえのためになら、スカートだって穿いてやるぞ」
と、笑いの響きのない声で、瞬に告げてきた。
「え……」
瞬は、咄嗟に自分が何を言われたのかがわからなかったのである。
「それ……どういう意味……」
「おまえのためになら、俺はどんなことだってしてやるということだ」

「……」
だから この恋は諦めてくれ――と、そういうことなのだろうか。
瞬は唇を噛みしめた。
それが氷河の答えなら、今度は自分が、これからの二人のために氷河に笑顔を作って見せてやらなければならない。

もちろん、瞬は、それをした。
だが、うまく笑えていなかったのだろう。
氷河は、瞬の出来損ないの笑顔を見詰め、すぐに新たな言葉を継いできた。
「おまえのためになら、だぞ。星矢や紫龍や――アテナのためにだって、俺はそんなことはしない」
「氷河……あの……」
瞬は、今度こそ本当に、氷河の言わんとするところが完全に理解できなくなった。
そんな瞬に焦れたように、氷河が僅かに肩をいからせる。

「ったく、俺にだって予定というものがあったんだぞ。もっとムードのある場所で、もっと格好よく告白させてくれてもいいだろう。なぜ、この俺がこんな間抜けな告白をしなければならないんだ。スカートを穿くことが恋の証になるなんてシチュエーションは、出来の悪い笑い話にしかならない」
「……」
いったい氷河は何を言っているのだろう。
氷河は仲間の口にした冗談を発展させて 更なる笑いを招こうとしているのだろうか。
だが、それにしては、氷河の瞳が笑っていない。
氷河の眼差しはいたって真剣で、彼は、その真剣な色の瞳に瞬の姿を映し、それが恋の証になるのならスカートを穿いてやってもいいと言ってくれている。

「あ……」
それはあり得ないことだった。
氷河が、“瞬”という人間を、仲間という枠組みを超えて特別に思ってくれている――などということは。
「ぼ……僕、こう見えても男だよ。氷河が僕を好きだなんて、そんなの おかしなことだよ……!」
なぜそんなことを言うのか、瞬は自分でも自分がよくわからなかったのである。
その“おかしな”思いに、他でもない自分自身が囚われているというのに。

氷河は、だが、どうやらそれ・・を おかしなことだとは思っていないようだった。
「俺はこんなに いい男だし、おまえはそんなに可愛い。誰が見ても似合いの二人がくっつかない方が不自然だろう」
「で……でも……僕は――。僕自身、どうしてこんなに氷河を好きになっちゃったのかが わからずにいるのに、なのに氷河が僕を好きでいてくれるなんて、どうして そんなことがありえるの……」

それが、瞬はずっと不思議だったのだ。
この思いは、いったいいつ、どんなふうにして生まれてきたものなのか――それが、本当に不思議でならなかった。
まして、その不思議な出来事が、氷河の内にも起こっているなど、“不思議”を通り越して奇跡めいている。

瞬の問いかけに対する氷河の答えは、実に意外なものだった。
答えが意外というより――氷河は、瞬の問いかけの方を意外に思ったらしい。
彼は、自分の恋に戸惑っている瞬に、逆に、
「なぜ俺を好きになったのか わからない――って、おまえは そんなこともわからずにいたのか?」
と、問い返してきたのだ。
「氷河にはわかってるのっ !? 僕が氷河を好きになったわけが !? 」
「わかる」
氷河はあっさりと頷き、
「ど……どうして !? 氷河が綺麗だから !? 」
瞬は、更に気負い込むことになった。

「それはあまり関係がないと思うな。おまえは面食いじゃなさそうだし。なにしろ、あのタコをパンダではなく人間の方に分類してしまえるほど、外見へのこだわりがない」
なぜここにタコやパンダが登場してくるのか、もちろん瞬にはわからなかった。
だが今は、タコとパンダの関連性などどうでもいい。
瞬は、氷河に重ねて問いかけた。
「じゃ……じゃあ、なぜ !? 」

畳み掛けてくる瞬に、氷河は、少々自虐の気味のある笑みを浮かべてみせた。
「それは、まあ……。つまり、先におまえを好きになったのは俺の方だったんだ」
「え?」
「俺はいつもおまえを見ていた。おまえが俺を好きになってくれたらいいと願いながら、おまえだけを見詰めていた。おまえは、おそらく無意識下で俺の視線を感じていて、俺の気持ちに気付き、そして多分、俺にほだされたんだ」
「ほ……ほだされた?」
「あるいは俺の執念に負けたか、同情したか、だな」

瞬は、一度大きく瞳を見開き、それから幾度か瞬きを繰り返すことになったのである。
氷河が自信に満ちて告げることが、瞬には理解の範疇を超えたものだったのだ。
そんな恋の生まれ方があるものだろうか。
瞬は、恋というものは、人の心の優しさや美しさに 人の心が共鳴することで生まれるものだと思っていた。

「どっちにしても、もう離さないぞ。おまえは俺のものだ」
氷河の考えは、瞬とは違っているらしい。
好きになったきっかけなど気にしていても意味はないと言って、彼は瞬を抱きしめてきた。
瞬の髪に唇を押し当て、低く囁く。
「タコの片思いなんて、どうでもいい他人のことばかり気にして、俺の気持ちに一向に気付いてくれないおまえが可愛くて仕方ない」
「氷河……」

恋に落ちたきっかけなど、確かにどうでもいいことなのかもしれないと、瞬は氷河の胸の中で思ったのである。
今 こうして氷河に抱きしめてもらっていることが、これほど心地良いのなら――と。
その心地良さの中には、少しばかり困惑の気持ちも混じってはいたのだが。
なにしろ、勇気を出して告白してみたら、本当に恋が実ってしまったのだ。
カシオスが言っていた通りに。

臆病だった自分を抱きしめてくれる氷河の腕が温かい。
その温かさが、瞬に涙を運んできた。
なぜ この温かさは、カシオスやシャイナには手に入れることのできないものなのだろう。
瞬は氷河の胸の中で幸福で、そして、自分が幸福でいることに、罪悪感のようなものを感じ始めていた。






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