「瞬、大丈夫か?」
「あ……」
その人の瞳は、明るく輝いていた。
まるで己れの死の可能性を一度も考えたことのない子供のように。
そして、彼の表情は、思い描いた夢が叶わないかもしれないという不安を抱いたことのない子供のように嬉しそうだった。
彼が そんな子供のように幸福な人間でないことを瞬は知っていたのだが――それでも、今の瞬の目には、彼がそういうものであるかのように映った。

「おまえは本当に――そんなによかったのか?」
「氷河……」
「どうしてくれる。俺はすっかり自信過剰な男になってしまった」
笑いながら そう告げる氷河は、今は生きている。
その生を謳歌している。
だが、その命もいつかは消え、死ぬことのできない自分は 彼の死を一人で見送らなければならなくなるだろう。
その未来に、瞬はぞっとした。

氷河はアテナの聖闘士である。
戦いの中で、あるいは、聖闘士になる以前にも、彼は人の死に幾度も立ち合ってきた。
彼は、いったい人の生と死をどう考えているのだろう。
それを確かめたくて、瞬は、これまで誰にも言わずにいた その秘密を、氷河に打ち明けてみたのである。

「僕には死神が憑いてるの」
「なに?」
「僕の命を守ろうとする死神だよ。その死神がね、誰か一人だけ、死んだ人を生き返らせてやろうって言ってるの」
「急に何を言い出したんだ。瞬、こういう場面でそういう冗談はあまり――」
「冗談じゃないの。何か企んでいるのかもしれないけど、彼は、自分にはその力があると断言してた」
「……」

瞬の告白を聞くと、氷河は、彼がその瞳に浮かべていた微笑を消し去り、眉をひそめた。
氷河の瞳に奇異の色が浮かぶのを認め、瞬は意を決して彼に尋ねてみたのである。
「カミュに生き返ってほしい?」
否という答えと、応という答え。
その両方を同じだけの強さで願いながら、瞬は、その決定を氷河に委ねた。
これ以上ないほど真剣な思いで尋ねたというのに、氷河が瞬に返してきた答えは、どちらかといえば軽い印象の強い苦笑だった。
彼は、瞬の問いかけを、ただの戯れ言と受け取ったらしい。

「生き返らせるのなら、カミュよりも おまえの先生の方がいいんじゃないのか? おまえや他の者たちの話を聞いている限りでは、おまえの師はカミュよりよほど優れた人物だったようじゃないか」
笑いながらそう告げる氷河の様子が、瞬に唇を噛みしめさせた。
そんなことは、言われなくてもわかっているのだ。

「僕の先生は――客観的で冷静な判断力で、正しい道を見極めることのできる人だった。そんなふうに生きていた。実際、いつも正しかったし――聖域に巣食っていた邪悪にも気付いていて、盲目的に聖域の指示に従うこともしなかった。もっと生きたかったろうとは思うけど、自分の生き方に悔いはなかったと思う。でも、カミュはそうじゃないでしょ。やり直したいことがたくさんあったでしょ。不肖の弟子のことも心配だったろうし」

冗談めいてではなく真顔で語る瞬に、氷河は更に深く眉をひそめることになったのである。
瞬の瞳には涙さえにじんでいる。
氷河は、その手で瞬の剥きだしの肩を掴んだ。
「瞬。おまえ、変だぞ。死神なんて、妄想にしても縁起でもない。おまえは生きているし、死神の世話になるのなんて、何十年も先のことだ」
「僕の命を守る死神だと言ったでしょう。僕は死なない――死ねないの」
「瞬……」

アテナの聖闘士が、自分の死であれ、他人の死であれ、死を恐れることはさほど不自然なことではない――と思う。
瞬のように感受性の強い人間なら なおのこと、それはありえることである。
聖闘士でなくても人は死を恐れるものだし、死を恐れない人間というのは ろくな生き方をしていない人間に決まっている――というのが、氷河の考えだった。
しかし、死に取り憑かれた人間の妄想としては、瞬の言は尋常のものではない。
『死ねない』――というのは。

「死は――死は権利でしょう。人には死を選ぶ権利があると思う。生が否応なく与えられたり奪われたりするものである代わりに、人は自分の死だけは自分の意思で決めることができる。そのはずだよね? そのはずなのに、僕は死ねない……!」
『死ぬのが恐い』『死にたくない』というのなら、わかるのである。
だが、『死ねない』とは。

瞬は、自分が口にしている言葉の異様に気付いているのだろうかと、氷河は疑った。
どう考えても、瞬は気付いていない。
氷河は、瞬を落ち着かせるために、瞬の肩と頭とを両腕で抱きしめた。
触れるほど唇を近付けて、なだめ諭すように瞬の耳許で囁く。
「俺が生きている限り、死を選ぶ権利なんてものはおまえにはない。おまえは俺のために生きていなければならないんだ」
氷河に抱きしめられても、瞬は震えていた――声も身体も。

「死神は僕以外の人間すべてが死に絶えた世界を造ろうとしている。そこに僕を一人 投げ入れようとしている。僕は恐い。そんな世界は嫌だ。そんな世界に一人だけで生きていたくなんかない……!」
震える両手を氷河の背と首に絡ませ、瞬が氷河にしがみつく。
「死なないで。死んじゃいや。僕は一人では生きてられない。一人きりじゃ、生きていることに意味がない。その代わり、氷河が生きていてくれさえすれば、僕の生には意味があるの……!」

いったい瞬は、生きたいのか死にたいのか――。
いったい何が原因なのかは 氷河にはわからなかったが――死神の存在など信じていない氷河は、当然、その原因は死神以外の何かなのだと考えるしかなかったのだが――瞬が取り乱していることは事実である。
言っていることも支離滅裂、瞬が真実望んでいることが何なのかも、氷河にはわからなかった。
ただ氷河は、瞬に生きていてほしかったので――カミュのように死んでなどほしくなかったので――低く静かな声で告げたのである。
「おまえも生きていてくれ。俺のために」

氷河自身は さほど突拍子のないことを言ったつもりはなかったのだが、その言葉を聞いた途端に、瞬ははっとしたように瞳を見開き、己が手で師の命を絶った男を見詰めてきた。






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