『おまえも生きていてくれ。俺のために』 氷河のあまりに切なげな微笑に、瞬は胸を突かれたのである。 自分が生きるために、氷河にも生きていてほしい――と、瞬は望んでいた。 俺が生きるために、おまえも生きていてくれ――と、氷河は言う。 人はそう思うものだ。 自分が愛している人、自分を愛してくれる人の死を望む者はいない。 だというのに、氷河は、その手で彼の師を倒さなければならなかったのだ。 その苦しみはどれほどのものだったのだろう。 その苦しみを 「この手で師の命を奪ったことへのこだわりや負い目で、カミュに死んだままでいてほしいのではなく、生き返ってほしいのでもなく――。そうだな。俺は、カミュに生き返ってほしいんじゃなく、生きていてほしかったんだ。そして、正しい道を自分で見付けてほしかった。だが、それはもう叶わぬ夢で、やり直すことのできない過去だ。俺にできるのは、カミュの生と死を無駄にしないことくらいで――」 「氷河……」 「だから、おまえも自分に死神が憑いているなんて、詰まらない思い込みは捨てろ。そんな思い込みは、過ぎると妄想の域に入ってしまうぞ」 氷河が瞬の髪に手をのばしてくる。 そして、駄々をこねる子供をなだめるように、氷河の手は瞬の髪を撫でた。 「そんな意味のない思い込みは忘れてしまえ。おまえの命は俺たちが守ってやる。おまえも俺たちを守ってくれるだろう?」 「も……妄想? あの死神が――?」 そうなのだろうか? ――と、瞬は初めて、死神の存在を疑うことをしたのである。 あの死神は本当は存在しない。 あの銀色の光をまとった口の悪い死神が、もし 瞬という人間が作り出した妄想の産物にすぎないのだとしたら――。 だとしたら、自分はいったい いつからそんな妄想に囚われ始めたのだったろう? 軽い目眩いを覚えながら、瞬は自分の記憶の糸を辿り始めたのである。 ――最初に彼に出会ったのはアンドロメダ島、だった。 インド洋に浮かぶ絶海の孤島。 厳しい環境とつらい修行。 仲間たちについていけない自分を落ちこぼれだと思い、瞬は、自分がそういうものであることに、心のどこかで安堵してもいた。 そんなある日、誰かと模擬試合をした――のだ。 実戦のつもりで戦うようにと言われ、瞬は初めて修行仲間の一人と拳を交えた。 その時 瞬は、無事に今日の訓練が終わってくれればいいと、それだけを思っていた。 持てる力を出しきって戦おうなどという考えは、全くなかった。 瞬は、必死でもなければ、決死の思いも抱いていなかったのだ――いつもの通りに。 自分から攻撃することなど思いもよらず、瞬は、修行仲間が仕掛けてくる技や拳をよけることにだけ意識を向けていた。 だというのに、瞬は、いつのまにか彼に勝ってしまっていたのである。 対戦した相手に、瞬自身は拳ひとつ打ち込んでいなかったというのに。 自分は当然彼に負けるだろうと信じて、瞬は彼の前に立ったのに――その時初めて、瞬はこれまで共に修行を続けてきた仲間を倒し、傷付けてしまったのだ。 瞬に倒された者は、まさか自分が“落ちこぼれの瞬”に負けるなどとは思ってもいなかったのだろう。 瞬が恐る恐る差し延べた手を、屈辱と怒りに燃えたような目をして、彼は拒絶した。 瞬は、事ここに至って ついに、自分の力が既に意思の力では抑えつけられないところまで強大になってしまっていることを認めざるを得なくなってしまったのである。 どれほど抑えようとしても、身体に心にみなぎってくる強大な力。 どれほど弱い人間でいたいと願っても強さを増すばかりの、自分という人間。 瞬は、己れの内に潜む力に戦慄した。 もはや兄との約束を果たすしかない――瞬は、絶望に打ちひしがれながら、そう思った。 そして、手に入れたのだ。あの島の名を冠する聖闘士の聖衣を。 だが、本当にそうだったのだろうか――。 (兄さんとの約束があったから仕方なく戦って、仕方なく勝ったなんて、卑怯な言い訳だ。ただの綺麗事。本当は僕は死にたくなかったんだ。僕は、生きていたかった……) たとえ、人を傷付けても。 (サクリファイスも――生きたかったから、僕は生き延びたんだ――) それでも――聖闘士になってからも、自分が生き延びてしまうことが、瞬は不思議でならなかった。 誰よりも弱い人間であるはずの自分が、自分の行く手を遮ろうとする者を倒し、乗り越えていく。 最後に生き残るのは、いつも自分。 誰よりも弱いはずの、誰も傷付けたくないと願っているはずの瞬自身だった。 自らが生き延びるために敵を倒す罪。 敵を倒し、傷付け、自分だけが生き延びる罪。 (自分が生き延びてしまうこと――人を傷付けても生き延びてしまうことを、僕は、他人のせいに――死神のせいにしようとしたんだろうか……) 本当は、他の誰よりも自分自身が生に貪欲なだけだったのに? 何があっても、どんな敵と対峙しても必ず生き延びてしまう自分が 浅ましく見苦しいものに思えたから、自分は本当は“清らか”な人間だと思いたかったから、自分は“あれ”を作り出したのだろうか――? もし そうだったのだとしたら、存在しないものは存在しないものにしなければならない――と、瞬は思った。 自身の罪を他に帰すような行為は、心弱く卑怯な人間のすることである。 自分が倒した者の死の責任を、倒した者が負わなくてどうするのだ。 そんな卑怯な人間が、氷河や星矢たちの仲間であっていいはずがない。 死神はいない。 あれは、心弱く卑怯だった子供が作り出した幻想――。 瞬は、自分自身に言い聞かせた。 あれは消し去るべきもの――消し去らなければならないもの。 自分が、死神の力によってではなく自らの意思と力で生き、かつ戦っていることを、アンドロメダ座の聖闘士は認めなければならないのだ、と。 氷河は生きて、“瞬”の側にいてくれる。 氷河のために“瞬”は死ねない。 だから、“瞬”は生きる。 “瞬”の命を奪おうとする者たちを傷付け、倒しても。 その罪は死神に帰すべきものではなく、人を傷付け倒した者こそが負うべきものなのだ。 もちろんアテナの聖闘士である“瞬”は、地上の平和と安寧を望んでいる。 だが、氷河を悲しませたくないから、戦い続け生き続ける――“瞬”がそう思うことのどこに罪があるというのか。 それは、『地上の平和と安寧を守るために死なない』などという大仰な大義名分よりも、自分にはふさわしい生きる理由なのかもしれないと、瞬は思った。 それ |