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「あたしの可愛い瞬を こましてくれたのはアンタなの?」
彼女は氷河を見るなり、開口一番にそう言った。
そして、氷河は倒れそうになったのである。
本気で、彼は倒れるかと思った。

なにしろ、彼は、今日 城戸邸にやってくるジュネなる女性の人物像を、
「優しくて、強くて、思い遣りがあって、聡明で、僕がアンドロメダ島でお姉さんみたいに思ってた人なんだ。ううん、お姉さんっていうより、もしかしたら、あの島ではジュネさんこそが僕の女神――アテナだったかもしれない。ジュネさんがいなかったら、僕は、あの島に行って1年も経たないうちに挫けちゃって、絶対に聖闘士になんかなれなかったと思う。生きてさえいなかったかもしれないよ」
と、聞かされていたのだ。
瞬は、長々しい賞讃の言葉の最後に、付けたりのように、
「それに、すっごい美人だよ」
と言った。

そこまでの賛美を聞かされていたのである。
しかも、瞬の命の恩人。
氷河は、言ってみれば自宅も同然の城戸邸で 一人の客人を迎えるために、わざわざネクタイまで締めていたのだ。
ところが、聞くと見るとでは大違い。
実際に会ってみると、アンドロメダ島での瞬の女神は、氷河の想像をことごとく裏切る女性だったのである。
一歩間違えばボンテージファッションと見紛う服装で身を固め、態度は不遜、所作は乱暴。
高いヒールを履いた右脚を高くあげて脚を組み、彼女は通された客間のソファに腰をおろした。
そして、到底上品とは言い難い口調と言葉で――遠慮のない表現をするならば、“下品”としか評しようのない口調と言葉で――挨拶らしい挨拶もなしに、氷河に向かって、その言葉を吐いてくれたのである。
「あたしの可愛い瞬を こましてくれたのはアンタなの?」
と。

これが本当に瞬と同じ場所で、瞬と同じ師に師事した聖闘士なのかと、氷河が激しい目眩いを覚えたとしても、それは致し方のないことだったろう。
何と言ってもジュネは、“地上で最も清らか”をキャッチフレーズにしている瞬が、瞳を輝かせて『女神』とまで賞讃した女性。
当然、氷河は、女神のように高潔で慈愛に満ちた高貴な美女が現われるものと思っていたのだ。

だというのに、城戸邸の客間で脚を組んでソファに座り、顎をしゃくって瞬の恋人を値踏みする彼女の様子は、女神どころか、瞬と同じ人類なのかどうかさえ怪しんでしまいそうなほど 得体の知れないシロモノだった。
そのシロモノを、しいて人類の何かにたとえるなら、二昔前のレディースの頭、あるいは二昔前に絶滅したという噂の“スケバン”なる生き物、さもなくば極道の姐御予備軍――といったところ。
氷河が瞬の賞讃を事実と認めることができたのは、彼女が美人の部類に入る造作を備えている人間だということくらいのものだった。

危うく卒倒しかけた男の隣りで、きっちり両膝を揃え、楚々とした様子で座っている瞬の方が、はるかに上品で女らしいと、(言葉にはせずに)氷河は思ったのである。
何より、値踏みするように瞬の恋人をじろじろと見る彼女の眼差しが無礼で不躾で不遜なことが、氷河の気に障った。

「え……と、はい、氷河、こちらがジュネさん。ジュネさん、氷河です」
浮かべている表情も言葉使いも、瞬の方がはるかに丁寧で品があった。
「瞬から噂は聞いている。アンドロメダ島では瞬が一方ならず世話になったとか」
そう言って彼女に会釈をしてのける自分を、氷河は、何と礼儀正しい人間なのだろうと、本気で思ったのである。
もちろん、無礼な人間に下手したてに出てばかりいられる性分ではない彼は、礼儀正しい その挨拶に続けて、
「俺をじろじろ見るのはやめろ」
と言わずにはいられなかったのだが。

意外やジュネは、氷河の要請に素直に従ってくれた。
遠慮のない視線で、一通り氷河の観察を終えてから。
「ああ、失礼。瞬がねえ、僕の氷河は優しくて強くて綺麗でと大絶賛するもんだから、あたしは“瞬の氷河”って奴がどれほどのものかと興味津々でいたのさ」
「……」

氷河に対してジュネを褒めちぎっていたように、瞬はジュネに対しても同じことをしていたらしい。
そのこと自体は嬉しくないわけではなかったが、おかげで初対面の女に牛馬のように値踏みされることになったのかと思うと、氷河は溜め息を禁じ得なかったのである。
ジュネが、瞬の恋人の美点よりも欠点を見い出したがっていることは火を見るより明らか。
彼女は、たとえ瞬の恋人が完全無欠の男であっても難癖をつけるに決まっていた。

「うん、まあ、確かに見てくれはいいね。瞬の横にいて見劣りしないなんて、実に立派なもんだよ」
「お褒めにあずかって光栄だ。俺も、瞬から、ジュネさんは女神のように優しくて綺麗で強くてと、耳にタコができるくらい聞かされていたから、どんな高貴な女性がやってくるのかと、今日は朝からずっと楽しみにしていたんだ」
「で、どうだい」
「まあ、美人の類だろうな。だが、問題は――」
「問題は中身だよねえ」

言おうとしていた言葉をジュネに先に言われてしまった氷河が、むっとした顔になる。
一呼吸置いてから、氷河は、
「同感だな」
努めて怒りを表に出さないように、彼女に賛同してみせた。
「あんたの場合は、その中身に大いに問題がありそうだけど、そこんところはどうなんだい? いくら瞬が可愛いからって、オトコの瞬を、よくもまあヤってくれたもんだ。この恥知らず」
「アンドロメダ島の女神は、礼儀というものを心得ていないようだ。下品な」

それでなくても乾燥して静電気が起きやすい季節だというのに、氷河とジュネの間に数十万ボルト単位で計測できそうな ぴりぴりした空気が生成される。
ちょっとした刺激で発火・爆発しそうな空気を最も敏感に感じとったのは――その空気に最も強く怯えることになったのは――当然のことながら、二人の間に挟まれている人間――瞬――だった。
「あの……ジュネさん……氷河……」

女神とも思い敬愛している女性と恋人のやりとりを、彼等の横で はらはらしながら聞いていた瞬が、困惑しきった目をして二人の名を呼ぶ。
ジュネはそんな瞬を見て、にわかに眉根を寄せることをした。
瞬を困らせるのは、彼女の本意ではないらしい。
泣きそうな顔の瞬を見て嘆息し、彼女はその表情を和らげた――おそらく、かなり無理をして。

「そんな顔をするんじゃないよ。瞬が好きだって言うなら仕方ないって、それくらいは あたしだってわかってるさ。でも――あんた、本当にちゃんと瞬を支えてくれるの」
氷河に向かって投げかけられた問いかけに答えたのは、問われた当人ではなく瞬だった。
二人に直接対話をさせておくことは危険――と、瞬は、アテナの聖闘士 随一と評される防御防衛本能で敏感に感じ取ったのかもしれない。

「氷河が僕を支えるとか支えないとか、そういうんじゃなくて、僕たちは、アテナと地上の平和のために共に戦う仲間なんですよ、ジュネさん。僕だって、アンドロメダ島にいた頃よりは少しは強くなっているんです」
「おまえが強いのは知ってる。あたしが言っているのは、心――おまえの心のことだよ。この男は本当にちゃんとおまえの涙を拭いてくれるの」
「ジュネさん……」

幼い子供ではあるまいに、そんな心配をされるのは、瞬には不本意なことだったのかもしれない。
だが、瞬は、ジュネのその言葉を聞くなり、胸を衝かれたかのように声を詰まらせてしまったのである。
そして、氷河は――氷河も――ジュネは その乱暴な言葉使いほどには無神経な人間ではないのかもしれないと、認識を改めることをした。
『この恥知らず』と罵倒はしても、彼女は、氷河と瞬の ある意味 不自然な関係を否定する素振りは示さなかった。
瞬の兄のように、最愛の弟を取られた汚されたと、ほとんど憎悪にも似た感情を露わにすることもしない。
そんなことではなく――彼女は別のことを気にかけている。
氷河は、そんなジュネに好感のようなものを抱くことになった。






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