それから更に半月が経った ある日。
瞬の許にジュネから電話があった。
どうやら彼女は自分の携帯電話を持つことを始めたらしい。
ディスプレイに映し出された見知らぬ番号を 誰のものだろうと疑いながら通話ボタンを押した瞬は、受話器の向こうから聞こえてくるジュネの声を聞いた時、まず最初に、
(氷河じゃなく、僕?)
と思ったのである。

そう思ってしまった自分と、そう思わざるを得なくなっている現況を、瞬は、声には出さずに自嘲した。
ジュネと最も親しいアナテの聖闘士は、今ではアンドロメダ座の聖闘士ではなく白鳥座の聖闘士になってしまったのだ――と。

瞬の複雑微妙な心境に、ジュネは思い至っていないらしい。
あるいは、思い至ってはいても頓着はしていないらしい。
彼女は屈託のない声で、瞬に、都心にあるホテルのラウンジでの面会を申し出てきた。
瞬はもう一度――今度は声に出して、
「氷河じゃなく僕と?」
と尋ねることになったのである。

瞬はもちろん、嫌味や皮肉のつもりでそう言ったわけではない。
ジュネももちろん、それを嫌味や皮肉と受け取った気配は見せなかった――瞬に感じさせることはなかった。
「そう、おまえ。あ、もちろん、氷河は抜きでね」
瞬にそう答えるジュネの声音には、屈託も特段の底意も感じられない。
それは 瞬が知る通りのジュネらしい明るさと軽快さでできている声だった。
それでも――それでも、氷河とジュネが二人きりで何度も会っていたという事実を知った時に瞬の胸に生まれた わだかまり(のようなもの)は、晴れることはなかったのである。

自分が引き合わせた二人が親しみを増すことに何の問題があるわけでもない。
むしろ自分はそうなることを期待して、氷河とジュネを引き合わせた。
二人が二人きりで会っていたとしても、それは二人の思い遣りから出たことで、二人は自分をないがしろにしたわけではない。
もちろん二人は 自分に対する態度を変えるようなこともしていない。
なのに、なぜ自分はこんなにも不安なのか――。
瞬は、自分で自分がわからなかった。


ジュネに指定されたホテルのティーラウンジは、灰色の不安に沈む瞬の心とは対象的に明るい光に満ちていた。
平日の午後という時間帯のせいか、他のテーブルについている客たちは年配のご婦人が多く、その数も少なめ。
若いカップルや子供の姿は一つもなかった。

そんな中では、ジュネの若さと華やかさは否が応でも目立つ。
彼女は、他に女性のいないアンドロメダ島にいたから美しく見えていたのではなく、どこにいても美しく華やかな人なのだと、瞬は改めて思ったのである。
なぜか、少し気後れしながら。

1ヶ月振りに出会ったジュネは、1ヶ月前とどこも変わっていないように見えた。
彼女の瞳は1ヶ月前と同じように明るく澄み、頼りない弟弟子への慈愛を漂わせている。
その瞳に出会った時、自分の中にあった卑屈やひがみを、瞬はひどく恥ずかしく思ったのである。
この人がいなかったら、自分は十中八九 アンドロメダ島で死んでいた。
少なくとも、自分はあの島で早々に挫けてしまい、聖闘士になることはできなかっただろう――と。
瞬にとって、ジュネはそういう人だった。

「話って何ですか?」
だから、ジュネの瞳に出会い、そう尋ねながらラウンジのテーブルについた時、瞬の胸中にくすぶっていた不安めいた感情は、ほぼ消え去っていたのである。
この強く優しく美しい人が、自分に“悪い”ことをするはずがない――と信じて。
だからこそ瞬は、ジュネの言葉の意味をすぐには理解できなかったのである。
テーブルを挟んでジュネの向かい側の椅子に座り こころもち首をかしげた瞬に、ジュネは、
「瞬。おまえ、氷河と別れておくれ」
と言ったのだ。

「えっ?」
ほとんど反射的に短い驚きの声を発した瞬の前で、ジュネが、自分がどういう表情を作るべきなのかを迷っているような表情を浮かべる。
迷ったあげくに、彼女は、真顔で瞬に対峙することにしたようだった。

「おまえがあんまり氷河を褒めるから、意地でも欠点を見付けてやろうと、あいつを何度か呼び出して、二人で会ってたんだけどね……」
「氷河の欠点?」
それを見付けたジュネは、それが彼女の弟分に“よくない”影響を及ぼすという結論に至ったとでもいうのだろうか。
だから急にそんなことを言い出したのだろうか。

だとしたら――だとしても、ジュネの目に映った氷河の欠点は、自分にとっては欠点ではないのだ――と、瞬は言おうとした。
その瞬を、ジュネが、軽く右手を動かすことで遮る。
そして、彼女は、彼女の言葉を重ねた。

「ああ、もってまわった言い方は嫌いだから、はっきり言うよ」
「は……はい」
「だからね、つまり、あたしは氷河と寝たんだよ」
「……」

瞬は、今度こそ本当に、自分の中にあった不安を完全に忘れた。
不安だけでなく、驚きも奇異の念も、すべての感情とすべての思考を忘れた。
ジュネの言葉の意味がわからない。
あるいは、わかることを、瞬の全身全霊が拒否していた。
そんな瞬の前で、ジュネが初めて微笑らしいものを その顔に浮かべる。
「いいねえ。やっぱり聖闘士は体力があって。氷河は顔だけじゃなく身体も綺麗だし。おまえが男の氷河を綺麗だ綺麗だって褒めるわけがよくわかったよ」
「ジュネ……さん……」
「今日たった今 別れるんだよ。おまえを深く傷付けたくないから言うんだ。それがおまえのためなんだからね」

『それがおまえのためなんだからね』
ジュネの言葉が、その言葉通りなのだとしたら、今 瞬に信じられないことを告げたジュネは、やはり瞬の見知っているジュネと――アンドロメダ島で未熟な子供を支え続けてくれたあの女性と――何も変わっていないということになる。
そう――なのだろうか?
瞬は、事ここに至ってもまだ、ジュネの言葉の意味を理解しかねていた。

身体だけでなく思考や感情までが強張ってしまった瞬に一瞥をくれて、ジュネが、掛けていた椅子から立ち上がる。
「あたしの言う通りにするんだよ。わかったね」
「あ……ジュ……ジュネさ……」
衝撃が大きすぎて 涙も出てこない――泣くことも、瞬にはできなかった。
かつては、たかだか3センチかそこいらのヤモリを見るだけで容易にあふれてきた涙。
今の瞬は涙にも見放されてしまっていた。






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