自分が城戸邸までどうやって帰ったのか、瞬は何も憶えていなかった。
おそらく自分は、お茶ひとつ飲まずに――オーダーもできずに――何時間もあのティーラウンジの席に座ったままでいた。
客の様子が尋常でないことに気付いたホテルの人間が、そんな奇妙な客から住まいを聞き出し、タクシーに乗せてくれたのだろう――。

瞬がぼんやりと そんなふうに考えることができるようになったのは、氷河の少々気色ばんだ声が瞬の耳に飛び込んできた時だった。
瞬は、城戸邸の正面玄関の前に立っていた。
辺りは既に夜の闇に包まれている。
奇妙な客を引き受けることになったタクシーの運転手は、氷河から運賃の他に相当額のチップを渡されたのか、満面の笑みをたたえて城戸邸の門に向かって彼の車をターンさせた。

「瞬、どこに行っていたんだ」
自分は一人で出掛けていくくせに 瞬が一人で出掛けることは嫌う氷河――が、半分責めるような口調でそう言いながら、瞬の顔を覗き込んでくる。
彼は、行き先も告げずに一人で外に出ていった瞬の帰宅を いらいらしながら待っていたらしい。
涙はないのに赤味を帯びている瞬の瞳に気付くと、彼はふいに その声音を気遣わしげなものに変化させた。
「いったい どうしたんだ……?」
「あ……」
「おまえを泣かせると、俺がジュネに殴られる」

ここですぐにジュネの名を出してくる氷河は、『瞬がどうしたのか』を実は知っているのではないかと、瞬は思ったのである。
知らずに――事情を察することもなく、氷河がそういう言い方をしているというのなら、彼にとってジュネは そこまで――日常の他愛のない会話に彼女を登場させることを不自然と感じないほどに――“当たりまえ”の存在になっているのだ。

なぜなのかと氷河を責めようとして――だが、瞬は結局 何も言うことができなかった。
大好きな二人。
二人は二人共、強く優しく美しくて――二人を引き合わせる前から、瞬は二人は似ていると思っていた。
似すぎていることで、軽い反発は生じるかもしれないが、一度 好意を抱いてしまえば必ず良い関係を築いてくれると、他でもない瞬自身が思っていたのだ。
それが、こんな関係になるとは想像もしていなかっただけで。

「本当に……どうしたんだ、瞬」
氷河の声は、いつもよりずっと気遣わしげだった。
瞬には そう感じられた。
それは罪悪感の作り出す優しさなのか――と疑ってしまう自分に、瞬は泣きたくなってしまったのである。

氷河は瞬にその事実を言わないつもりでいるようだった。
彼は隠し通すつもりでいるらしい。
おそらくは、同じ目的のために命をかけて共に戦う仲間同士の絆に亀裂を入れないために。

氷河は嘘をつけないわけではないが、保身のための嘘を何よりも嫌い軽蔑している男だった。
彼が瞬に――仲間に――嘘をつく理由は他に考えられない。
ならば瞬もまた氷河のために――仲間のために――嘘をつくしかない。
嘘を、瞬は氷河に告げた。
「ケーキ……を食べたの。その中にお酒が入ってたらしくて、僕、くらくらして――」
「ケーキ?」
「まだ気持ち悪い。僕、今日はもう寝る」

それが出来のいい嘘なのか 下手な嘘だったのか――は、嘘をついたことのない瞬にはわからなかった。
氷河の顔を見上げる勇気も持てなかったので、彼が騙されてくれたのかどうかもわからない。
だが、ともかく、瞬はそれで自室に一人で閉じこもる理由を氷河に提示することだけはでき、実際に瞬はそうした。

自室に一人きりになっても、ベッドの中に潜り込んでも、瞬の心は落ち着かず、もちろん眠ることもできなかった。
考えたくなどないのに、氷河とジュネが寄り添い合う姿ばかりが脳裏に浮かんでくる。
二人の目は、もう瞬の存在など気にかけてもいない。
嫌で嫌でたまらないのに、これほど似合いの二人が他にいるだろうかと思ってしまう自分が、瞬は悲しくてならなかった。






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