氷河がその目許に浮かべていた笑みを消し去ったのが、瞬にはわかった。
彼の表情が固く強張っていく。
氷河は、瞬の拒絶の理由を知っているはずだった。
にもかかわらず、瞬が恐る恐る窺い見た氷河の瞳に浮かんでいる感情は、隠し事がばれた可能性に思い至った人間のそれではなかった。

それは、驚きと呼ぶべきものなのか、悲しみと呼ぶべきものなのか――氷河は、瞬を“信じられないもの”を見る目で見詰めていたのである。
そして、彼は、耐え難い苦痛に呻く人間のそれのような声で、
「おまえ……ジュネの言葉を信じたのか……?」
と、呟くように言った。

「え?」
「おまえが本当に――あれを信じた……?」
呆然としているような氷河の唇から洩れ出てくる声と言葉は、瞬に聞かせるためのものではなく、まるで宙に向かって発せられた一人言のようだった。
氷河自身、瞬に聞かせるつもりで そんなことを言ったのではなかったのだろう。

「瞬、あれは嘘だ。あれは……俺とジュネで賭けをしたんだ。俺とジュネが、その……特別な仲になったという嘘を、おまえが信じるかどうか」
瞬のために作ったのだろう その声と言葉さえ、氷河は半ば自失しながら言っているように、瞬には聞こえた。
「か……賭け?」
「ジュネの言ったことは嘘だ。なんなら、今ここにあの女を呼んで、証言させてやってもいい」
「ど……どうして、そんな賭けなんて」
瞬に問い返されて氷河はやっと、まともに思考する術を思い出したらしい。
彼は無言で瞬を見詰め、やがて さりげなく その視線を瞬の上から逸らした。

「俺の知らないアンドロメダ島でのおまえのことを、ジュネがやたらと得意そうに話すから、今はおまえは俺のもので、俺の方がおまえと親しいんだと言ったら、じゃあ試してみようということになったんだ」
「そんな……」
瞬には、氷河の言うことが にわかには信じられなかった。
ジュネは確かに鷹揚で大胆なところのある女性ではあったが、決して 人の心を傷付けるような嘘をつくことのできる女性ではなかったのだ。
少なくとも、瞬の知っているジュネは。

氷河の言葉を信じたいのか信じたくないのか――。
そんなこともわからないまま、瞬は震える手でベッドの脇のナイトテーブルに置いていた携帯電話を取り、先日の着信履歴からジュネの電話番号を探して返信ボタンを押した。
「あら、瞬。どうしたの?」
3コールほどで繋がった電話の向こうから響いてくるジュネの声が あまりに明るいので、瞬は逆に声を出すことができなくなってしまったのである。

瞬の沈黙で、ジュネは事情を察したらしい。
全く悪びれた響きのない声で、ジュネは、
「もしかして、ばれちゃったの? で、どっちの勝ち?」
と、瞬に尋ねてきた。
「ジュネさん……」
やっと発することのできた声に涙が混じる。
手にしていた携帯電話を、瞬は毛布の上に取り落とした。

「ひどい……僕……僕……こんな……」
これがジュネでなく氷河でなかったなら、たちの悪いいたずらに引っかかってしまったと、きまりの悪い笑みを浮かべて 事を収めることもできていただろう。
それがジュネであり氷河だったから――誰よりも信じて・・・いた・・二人のしたことだったから――瞬は笑ってしまうことができなかったのである。

信じていた人たちに裏切られたから――ではない。
「なぜ俺を信じられなかったんだ」
氷河にそう問われるまでもなく――そもそも瞬は“誰よりも信じていた二人”を信じていなかったのだ。
「それはきっと……好きだってことと信じるってことは別のことだからだよ……。ジュネさんは僕なんかよりずっと優しくて強くて綺麗な――綺麗な女の人だから……」
「瞬……」

それが 氷河を信じることのできなかった本当の理由だったのだと、瞬は初めて知った――自覚した。
こんなみじめで卑屈な姿を 氷河には見られたくない。
そう思った瞬間に、瞬は氷河に向かって悲鳴のような声をぶつけていた。
「出てって! ここから出てって! 氷河なんか嫌い! もう僕を見ないで! 僕に構わないで!」
そんなことを言いたくはない。
こんなふうに取り乱した姿を氷河に見せたくはない。
だが、瞬には自分を止めることができなかった。

「瞬!」
「出てって! でないと僕、苦しくて死んでしまう……!」
瞬の悲鳴は、最後には嗚咽になってしまっていた。






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