ジュネが城戸邸の瞬の部屋にやってきたのは、それから1時間ほどの時間が経ってからだった。
あの電話に出てすぐに、彼女は彼女が仮の住まいにしていたホテルを飛び出てきたものらしい。
部屋のドアを開けてからノックをして瞬の注意を自分に向けたジュネは、ベッドの上に上体を起こしている瞬の泣きはらして赤くなった目を見て、短い吐息を洩らした。

「痴話喧嘩は、ケータイの通話を切ってからしてほしいもんだね」
「ジュネさん……」
ジュネを追い払う気力は、既に瞬の中には残っていなかった。
あんな嘘をつかれたというのに、彼女を責める気にもならない。
瞬がそんな状態にあることを見越したように、ジュネは瞬に謝罪もせずに尋ねてきた。

「悪いのは あたしかい? それとも氷河?」
「……僕」
「『氷河なんか嫌い』で、『もう構ってほしくない』の?」
氷河に投げつけた瞬の悲鳴は、ジュネに筒抜けになっていたらしい。
瞬は無言で首を横に振った。
でも もう駄目かもしれない――そう思いながら。

「結構。まだ分別は残ってるようだね」
顎をしゃくるように頷いて、ジュネが瞬のベッドの側に歩み寄ってくる。
そうして彼女は、瞬に断りも入れずに、少々乱暴な所作で瞬のベッドに腰をおろした。
「氷河は滅茶苦茶 落ち込んでるようだよ。まあ、あいつも悪いんだけどね。自信家になれないおまえの性格を、氷河は全然わかってない。自分がおまえを信じてるんだから、おまえにも信じられてるはずだと、氷河はおめでたく信じ込んでて――」
だからこういうことになるんだよと、ジュネは呆れたような口振りで続けた。

氷河を信じきることができなかった瞬と、瞬を信じすぎていた氷河。
人と人の信頼というものは、裏切ろうという意思が介在しなくても壊れてしまうことがあるものらしい。
瞬は、氷河を失いたくなかったし、できることなら もう一度 彼との間に信頼関係を築きたいとも思っていた。
だが、彼を信じることができない。
たとえ自分の勝利を確信していたのだとしても、氷河はなぜ、あんな人の心を弄ぶような悪質な賭けを思いついたのか――。
氷河の心がわからないから、瞬は氷河を信じることができなかったのだ。

唇を噛みしめて俯いている瞬の髪に、ふいにジュネが手をのばしてくる。
ジュネは瞬の髪をくしゃくしゃに乱し、そうしてから、苦笑いをしながら瞬に尋ねてきた。
「氷河とあたしが何を賭けて こんな真似をしたか、氷河から聞いたかい?」
瞬が無言で首を横に振り、そんな瞬を見て、ジュネは深く首肯した。
「あたしが勝ったら、氷河は母親の形見のロザリオをあたしに譲る。氷河が勝ったら、あたしがおまえの兄を説得する」
「兄さん……?」
なぜここで兄が出てくるのか――。
それまでずっと俯かせていた顔を、瞬は初めて上向かせたのである。
瞬の目の前には、瞬が見知っている通りの、優しくて綺麗なジュネの瞳があった。

「おまえと氷河がそういうことになって、それでなくても放浪癖のあったおまえの兄貴が、ほとんど ここに寄りつかなくなったんだろ? せめてもう少し頻繁におまえに会いに来てくれるよう、おまえの兄貴を説得してくれと言われたんだよ。おまえを奪われた者同士、きっとうまく説得できるだろうからって。嫌味で言ってるんじゃないところが嫌味の極致だね、あの恋するオトコは」
「そんな……氷河は……でも、そんなこと一言も……」

氷河は、瞬に、そんなことは一言も言わなかった。
「まあ、恋するオトコの心境なんて、あたしにはちっともわからないけど? 言うのが癪だったんじゃないの? それに、そんなこと言ったら、おまえは氷河を許さないわけにはいかなくなる。氷河を責められなくなったおまえは、自分を責めるしかなくなるじゃないか」
「それは……」

ジュネの推察は、おそらく的を射ている。
その事実を知らせれば自分が許されることを知っているから、氷河はあえて口をつぐんだのだ。
氷河は嘘をつけないわけではないが、保身のための嘘を軽蔑している。
そんな氷河は、保身のために真実を話すことも、見苦しいことと考えていそうだった。

「あたしは別に氷河のロザリオなんて欲しいわけじゃなかったけど、おまえの気持ちを確かめてみたかったから、賭けに乗ったんだ」
「で……でも……氷河は兄さんを嫌ってるんだと……」
「ああ、嫌ってるみたいだったね。でも、おまえの幸せのためなら、自分の感情を抑えることくらいするだろ、氷河は」
「僕はもう幸せだよ。今でも十分に――」
「もっと幸せにしてやりたかったのさ。小姑なんて鬱陶しいものはいない方がいいに決まってるのにねえ」
「あ……」

人間の身体は、涙を無尽蔵に生成できるようになっているのだろうか。
氷河を絶叫で追い出してからずっと泣き続け、流し尽くしてしまったと思っていたものが、また瞬の瞳にあふれてくる。
『氷河はなぜ、あんな人の心を弄ぶような悪質な賭けを思いついたのか』
その答えは考えるまでもない。
彼の寂しがりやの恋人のために決まっていた。

「おまえは素直で賢い子だから、自分がどうすべきなのかは ちゃんとわかってるね?」
ジュネに諭すように そう言われた瞬は、彼女に何度も頷いた。
そのたびに、毛布の上に置かれた瞬の手に涙の雫がこぼれ落ちる。
「氷河は ものぐさで不器用で、浮気だの二股だの面倒なことができる男じゃないから、安心してるがいいよ。自分は あの馬鹿男に愛されてるんだって絶対の自信を持てとまでは言わないけど、氷河がものぐさな男だってことくらいは信じてやるんだね」

「氷河は……ジュネさんに似てて、優しくて強くて綺麗なの……」
「馬鹿 お言いでないよ。あたしは、あの大馬鹿氷河なんかと違って、こんな賭けをしたら おまえを泣かせることになるって、ちゃんとわかってた。氷河にそのことを教えといた方がいいと思ったから、あたしはこの賭けに乗ってやったんだ」
「……」

今はまだ、ジュネの方が氷河より正しく 瞬という人間をわかっているらしい。
そうなると信じて・・・いた通りの反応を瞬が示したから、ジュネは自分が瞬に疑われたことを不快に感じていない――ということのようだった。
信頼というものには色々な形があるものだと思いながら、瞬は、涙でぼやけて見えるジュネの前で、泣き笑いを浮かべることになったのである。






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