おそらく、一輝がそんなものを買ってきたのは、昨夜の星矢と瞬のやりとりのせいだったろう。 昼間が晴れて暖かかった分、昨日は夜になってから急激に気温が下がり、城戸邸ラウンジからは、星も凍りついているような夜空を見ることができた。 瞬の傷心を癒すには瞬の意識を一輝と氷河から遠ざけるのがいちばんと考えた星矢は、夕食後の団欒時、できるだけ一輝と氷河に関わりのない話題を瞬に振り続けていた。 その会話の中に、 「真冬にさ、あったかい部屋で冷たく冷えたビールを飲むのが、最高の贅沢で幸せだとか言うぜ」 「ビールは無理だから、冷たいアイスクリームでも食べたいね」 というやりとりがあったのだ。 その凍える夜が明けた翌日の午後。 昼過ぎにふらりと外に出ていった一輝が城戸邸に戻った時、彼は40センチ四方の箱をその手に持っていた。 箱の色はピンクと白。 それは星矢も幾度か見たことのあるパッケージだったので、彼には一輝が手にしている箱の中身がアイスクリームケーキだということがすぐにわかったのである。 察するに、一輝は昨夜の弟の呟きを覚えていて、最愛の弟の喜ぶ顔見たさに、健気にも そんなものを購入してきたらしかった。 ただ、なぜそれを持った一輝が城戸邸の庭をうろついているのかは、星矢にもわからなかったのであるが。 いったい一輝は何をしているのかと訝った星矢が、彼に声をかけようとした時。 よりにもよって氷河が庭に出てきてしまったのである。 一輝が瞬のためにアイスクリームケーキを買ってきたことは、氷河の気に障るに違いない。 当然二人はここでまた低次元の争いを始めるに決まっている。 そんな詰まらない争いに巻き込まれるのは御免被りたいと考えた星矢は、一輝たちの前に姿を見せることを急遽 とりやめた。 それでも成り行きを見極めたい気持ちはあったので、彼は こそこそと庭の隅にある楡の木の幹の陰で息をひそめることにしたのである。 「こんなところで何をしている」 一輝の不審な行動の訳を尋ねた氷河の声は、意外にも至極穏やかなものだった。 氷河に問われた一輝がその右手をあげて、彼が手にしているものを氷河に指し示す。 「瞬が食いたいと言っていたからな」 「ああ」 それは瞬ご用達の店のパッケージで、当然 氷河はすぐに一輝が手にしているものが何であるのかを理解したらしい。 彼は、軽くその顎をしゃくるようにして頷いた。 憤りの気配も不快の色も見せずに。 「よりにもよって こんな日に、城戸邸の厨房の冷凍庫がメンテナンス中なんだ。外に置いておけば溶けないだろうと思ったんだが、今日に限って腹が立つほど太陽が元気でな」 忌々しげにそう言って、一輝が両の肩をすくめる。 「今日の日中の最高気温は15度を超えるという天気予報が出ていたぞ」 一輝が憎々しげに視線を投げた そうしてから氷河は、その右手を軽く振り、その場に高さ50センチほどの氷の塊りを出現させた。 その中に拳を打ち込み、アイスクリームケーキの箱を置けるほどの空洞を作る。 「この中に入れておけ」 「すまんな」 「いや」 一輝が、氷河が作り出したものの中に、自分の手にしていた箱をおさめる。 氷河の親切が当然のものであるかのように、ごく自然な所作で一輝はそうした。 二人のやりとりは終始なごやか。 友好的かつ平和。 たとえ瞬の喜ぶ顔見たさのことだったとしても、犬猿の仲のはずの二人が こんなに穏やかに共同作業にいそしんでいていいのかと疑わずにいられないほどに、氷河と一輝の間は どこまでもあくまでも凪ぎきっていた。 もしかしたら自分は悪い(?)夢でも見ているのかと 星矢が訝るほど、それは異様な光景だった。 「気味が悪いほど平和な光景だな」 ふいに背後から響いてきた龍座の聖闘士の声に星矢が驚かなかったのは、そんなことで驚く余裕もないほどに――星矢が既に驚きまくっていたからだったろう。 星矢は、今 自分の目の前で展開されている“気味が悪いほど平和な光景”に、すっかり動転してしまっていたのである。 まるで十年来の親友か何かのように和やかに穏やかに言葉と視線を交わし合っている一輝と氷河の様子に。 星矢を更に驚かせるものは、やはり彼の背後からではなく前方からやってきた。 つまり、アンドロメダ座の聖闘士が邸内から庭に出てきたのである。 一輝か氷河を探していたのだろう。 二人の姿を認めると、瞬は“気味が悪いほど平和な光景”の中に無邪気に飛び込んできた。 “友好的な氷河と一輝”というものに、星矢自身は気味の悪さを拭い去れずにいたのだが、瞬にはこれは喜ばしい光景だろう。 この様を見れば、瞬の懸念も霧散することになるに違いない――。 そう考えた星矢が、庭の隅の木の陰で安堵の胸を撫でおろした その瞬間、氷河の態度が一変した。 「何がアイスクリームケーキだ! こんなことに聖闘士の力を使わせるとは、俺を馬鹿にするにもほどがある! いや、これは俺のかつての苦しい修行を軽視する行為、俺にこの技を伝授してくれた我が師への侮辱、ひいてはアテナに対する侮辱だ!」 氷河は突然大声をあげ、それまで至極穏やかに言葉を交わし合っていた男に向かって、尋常でない怒りをぶつけ始めたのである。 星矢は、いったい何が起こったのかと目を白黒させることになった。 氷河の態度を豹変させた原因は、どう考えても、瞬がここに現われたこと、である。 だが、なぜ瞬のせいで氷河が怒り出すのか。 星矢には全く合点がいかなかった。 永久氷壁でできた即席の氷室と、その中に鎮座ましましているアイスクリームケーキの箱。 それで、瞬は、氷河の憤怒の訳を察したらしい。 慌てて氷河の側に駆け寄った瞬は、怒り心頭に発している様子の氷河の腕に取りすがり、彼の怒りを静めるべく懸命に努め始めたのだった。 「氷河、氷河、そんなに怒らないで。兄さんは、悪気があったんじゃないんだよ。仲間だったらそれくらいって、ちょっと氷河に甘えちゃっただけなんだ。兄さんは、僕が夕べアイスクリーム食べたいって言ったから、わざわざ買ってきてくれたんだと思うの。だから、ね、許してあげて」 「許せだと !? おまえの兄は、俺だけではなく、俺の師まで侮辱したんだぞ!」 眉をつりあげて怒声を響かせる氷河の顔を見やり、瞬は泣きそうな顔になった。 瞬はもちろん本気で、一輝が弟のために為した行為が氷河を怒らせ侮辱したたことに、心を痛めている。 兄と氷河の厚意と思い遣りが 二人の間に争いを生むなど、瞬には絶え難いことだったろう。 だが、そんな瞬と氷河のやりとりを眺めている星矢は、まるで城戸邸の庭という舞台の上で演じられている不条理劇を見ているような気分になっていたのである。 氷河の怒りはあまりにも唐突すぎ、そして、あまりにも芝居がかっていた。 瞬がこの場にやってくるまでは、一輝に対する氷河の態度は終始和やか。 彼は、瞬の兄に対して親切ですらあった。 その氷河がなぜ、瞬がやってきた途端――氷河と兄の不仲を案じている瞬が登場した途端――攻撃的で不親切な男になるのか。――ならなければならないのか。 逆ならわかるのである。 逆ならば――それは、星矢が氷河に求めた態度でもあった。 だが、現実の氷河の言動は、全く理屈に合わない。 なにより、瞬のためにならない。 何かが――否、すべてが――変だった。 『瞬のため』というのなら、氷河は、どう考えても、 一輝のせいで腹を立てているようで、その実、氷河の態度を一変させたのは瞬の登場。 氷河は、瞬の前で、わざと一輝と反目し合っている振りをしている。 つまり、氷河は、瞬を悲しませるようなことを意識して行なっている――のだ。 こうなると 星矢も、いつまでも思春期の少女のように木陰から 瞬をめぐる男たちの動向を見守ってばかりもいられなくなる。 これはいったいどういうことなのだと 二人を問い詰めるべく、星矢はその一歩を前方に踏み出した。――のだが。 「何やら大事そうにしまい込んでいるようだが、それが噂のアテナの聖衣か!」 星矢が行動を起こしかけた その瞬間、全く聞き覚えのない大音声が、城戸邸の庭に響き渡ったのだった。 |