「どーゆーことだよ、氷河! おまえは一輝が嫌いなんじゃなかったのかよ!」 瞬の前では一輝への敵愾心を剥き出しにし、瞬の目の届かないところでは瞬の兄に親切な男。 通りすがりの敵たちが ほうほうの そして、その星矢に、 「そんなことはないと思うぞ」 と答えてきたのは、あろうことか瞬の兄だったのである。 「そんなことはない――って、氷河はおまえを嫌ってないって、よりにもよって おまえが言うのかよ?」 「十中八九、そうだろうな」 一輝が事もなげに星矢に頷く様を見て やっと、氷河も事実を白状する気になったらしい。 彼は、理解不能の現実に混乱し頬を紅潮させている星矢に向かって、至極あっさり、 「まあ、特段 嫌ってはいないな。むしろ 俺は、一輝は俺にとって非常に有益な存在だと思っている」 と言ってのけたのである。 「有益? 邪魔者じゃなくて有益? 一輝がおまえにとって?」 星矢のくどいほどの念の押しように 肯定の返事を与えたのは、またしても瞬の兄だった。 「氷河は俺を利用しているんだ。俺の存在に感謝こそすれ、憎んだり排斥したり、ましてや邪魔者扱いをすることはできないだろう。氷河にとって、俺は、高い利用価値を持つ必要なモノなんだから。――こいつは、俺をダシにして、瞬を自分のものにした」 「……」 氷河が一輝を嫌っていないというのは事実なのかもしれない。 だが、一輝が氷河を嫌っていないというのは、全き事実ではないだろう――と、星矢は感じないわけにはいかなかったのである。 一輝が最後に付けたりのように告げた言葉には、どう聞いても憎々しさが こもりまくっていたのだ。 が、氷河は、彼にとって高い利用価値を持つモノの感情には頓着していないらしい。 彼は、一輝の言に軽く首肯した。 「瞬のブラコンは使えると思ったんだ。俺が一輝を嫌っている振りをすれば、瞬は俺と一輝の不仲を心配して、俺のことを気にかけてくれるようになるだろうと、俺は考えた」 「おまえと一輝の不仲を心配して――って……」 では、氷河は、瞬の気を引くために、嫌ってもいない男を(好いてもいないのだろうが)わざと嫌っている振りをしていた――というのだろうか。 星矢は、氷河の言い草を聞いて、ぽかんと阿呆のように口を開け――そのまま、彼の開いた口はふさがらなかった。 「瞬は誰にでも優しいし、基本的に誰に対しても公平だ。そんな瞬の目を俺に向けさせるために、俺は、瞬にとって唯一特別な存在である一輝を憎んでみせることにしたんだ。一輝とは敵対し合っていた時期もあったし、理由は適当にこじつけることができた。一輝の幻魔拳のせいで苦しんだとか、一生消えそうにないトラウマをしょいこんだとか、瞬の前で一輝への恨みつらみを並べ立ててやったわけだ。案の定、瞬の目は俺に向いた。兄を庇い、兄の所業を詫び、『キスさせてくれたら、少しだけ一輝への憎悪を忘れてやってもいい』と言ったら、瞬は俺にキスも許してくれた」 「氷河、おまえ、まさか――」 ここで星矢が、『おまえ、まさか、その手を使って、瞬をベッドにまで引きずり込んだんじゃないだろうな!』と氷河に詰め寄っていかなかったのは、星矢が、その質問に肯定の答えを返されることだけは何があっても避けたいと思ったから、だった。 星矢が尋ねようとしたことを、だが、氷河は察していただろう。 察した上で、彼は沈黙を守った。 その沈黙が、星矢の背筋を冷たく凍りつかせる。 ダイヤモンドダストを真正面から受けとめた時よりも冷たく固く心身を凍りつかせている星矢を哀れんだ一輝が、 「瞬は、本当に嫌なのであれば、ちゃんと嫌だと言う奴だ」 と言ってくれなかったなら、星矢は金輪際 氷河を仲間として認めることができなくなっていたに違いなかった。 そんな星矢の強張りも、仲間に対する一輝の思い遣りも、氷河にとってはどうでもいいことであるらしい。 そして、氷河は、現在の彼を取り巻く あらゆる状況に満足しているらしかった。 「まさに、一輝様々だ。俺が一輝を嫌っている振りをしている限り、瞬は俺のことを気にかけていてくれる。俺と一輝をナカヨクさせようと、俺のために気を揉み続けていてくれる。気にくわないのは、瞬が俺のことを考えている時、瞬が兄のことも考えているということくらいのものだな」 臆面もなく、氷河は、瞬の兄と仲間たちに そう言い募った。 一輝が口にした『こずるい』という言葉は、彼が氷河の魂胆を知っていたからこそ出てきた評価だったのだと、星矢は今こそ理解したのである。 「俺は、一輝を嫌ってはいない。もちろん、憎んでもいない。一輝はただ、俺の道具なだけだ。瞬を釣るための。瞬の心を俺に引きつけておき続けるためのエサでもあるな。憎むどころか、俺は一輝には心から感謝しているぞ。瞬をあそこまで素直で優しい人間に育てあげたことは、一輝の偉大なる功績だ」 「……」 これは、だが、『こずるい』程度の評価で済ませていいことだろうか。 あまりにも陋劣、あまりにも悪辣、あまりにも破廉恥。 人面獣心とは、こういう男のことを言うに違いない。 こんな男の腕の中に瞬がいることを、瞬の兄が看過していることは、星矢には全く合点のいかなかいことだった。 「一輝! おまえはそれでいいのかよ! 瞬がこんな奴の――」 「非常によい――とは言えないが、事実を瞬に言えると思うか。『おまえが好きになった男は、おまえの兄を道具として利用している冷血漢だ』などと」 「それは……」 それは言えない――。それは星矢にも言えることではなかった。 『人類 皆 兄弟』『友だちの友だちは友だち』を信条としている瞬に、世の中にはこんな卑劣な男もいるのだということを知らせたりなどしたら、瞬は深く傷付くことになるだろう。 それ以前に、そんな卑劣な人間の存在を瞬が信じるかどうかも怪しい。 瞬は、氷河にすっかり騙されている――のだ。 瞬が氷河に向けている好意と信頼が真実のものであることは、星矢にも否定することのできない事実だった。 「でも、ほんとに おまえはそれでいいのかよ。氷河に利用されっぱなしで。こんな卑怯で卑劣でサイテーの奴に瞬を任せて――」 「……」 星矢の言葉は、その半ば以上が、不幸な兄への同情心でできていた。 瞬の兄への星矢の同情に、卑怯で卑劣で最低の男が、挑戦的な態度で顎をしゃくってみせる。 「俺は確かに最低な男だが、そんな俺にも生存権というものは与えられているだろう。瞬の優しさと強さは俺にとって陽光のようなもので、瞬がいなければ、俺は生きていけない。瞬なしでは俺は生きていられない。俺が生き続けているためには瞬が必要なんだ。だから、瞬を俺の手許におくためになら、瞬の目と心を俺に向けるためになら、俺は何でもする。どんな卑怯なことでも、俺は必ずするぞ」 命をかけた戦いを共にしてきた仲間たちの前で――そこには瞬の兄もいるというのに――、堂々とそんなことを言ってのける氷河に、星矢は声と言葉を失ってしまったのである。 『愛から出たことなら、すべては許される』という卑劣極まりない主張を決然と口にしてしまう氷河に どう反応すればいいのかが、星矢にはわからなかった。 が、瞬の兄は、氷河のこの姿勢を既に諦観を抱いて認めてしまっているらしい。 「こいつが こういう状態である限り、こいつは瞬を大事にするだろう。瞬を守り続けるだろう。俺は、瞬が幸せでいてくれさえすれば、こいつの思惑などどうでもいい」 「こんな奴に利用されて――おまえにはプライドってもんはないのかよ!」 「瞬のためだというのなら、それは捨てられるものだ」 「だ……だとしても、氷河と一緒にいない方が瞬は幸せになれるとか、瞬のために 氷河よりもっとマシな奴を見付けてやろうとか、そういうことは考えないのかよ! おまえ、瞬の兄貴だろ!」 「残念ながら、氷河ほど瞬を必要としている人間を、俺は他に知らない」 「そ……それはそうだろうけど――」 それは、星矢も認めないわけにはいかない事実だった。 瞬の美点と欠点とを熟知し認めているのは 瞬の仲間たちだけだ――という自負が、星矢にはあった。 そして、その仲間たちの中で瞬に恋情を抱いているのは氷河だけなのだ。 つまり、世界で最も瞬を理解し必要としている人間は、他でもない氷河その人だということになる。 自分が氷河の道具にされていることを、瞬の兄自身が認め甘んじているというのなら、第三者が口を挟む余地はない。 星矢がそう考え、現状を受け入れようとした時、彼の耳に思いがけない言葉が飛び込んでくる。 それは、瞬の兄の声でできていた。 「それに、瞬がこいつと俺の不仲を心配している時、瞬は俺のこと 一輝のその言葉に、氷河がむっとした顔になる。 だが、彼自身が瞬の兄を道具として利用している手前、氷河は一輝に文句を言うことも、瞬の兄の狡猾を非難することもできない。 ――氷河を道具をとして利用しているのは、一輝も同じだったのだ。 |