この男に呼び出しを受けてから、瞬がずっと沈んでいる。 いつもなら、どんな話題にも打てば響くように小気味のいい言葉を返してくる瞬が、今日は、どれほど氷河が話しかけていっても鈍い反応を示すばかりだった。 いったい瞬はこの男に何を言われたのかと訝っていた氷河は、 「君はここを出ていかなければならない」 と彼に言われた時、瞬の消沈の原因がわかった――ような気になったのである。 瞬は仲間の脱落の事実を知らされたせいで落ち込んでしまったのだと、氷河はそう察した。 そして、氷河は、もしそうなら、なぜ彼は、瞬より先に脱落した当事者に その事実を知らせてくれなかったのかと、激しい憤りを覚えることになったのである。 先に教えてもらえていたならば、瞬がその事実を知っても傷付かないように、自分は事前に何らかの手を打つことができていたはずだったのに――と。 「俺は聖闘士になる見込みなしと判断されたのか? それで、瞬は――」 だが、それは氷河の早合点だった。 聖闘士になるさだめを負っていると言って氷河をこの聖域に連れてきた男は、怒りを含んだ氷河の言葉に静かに首を横に振った。 そうしてから、彼は、まるで口にしたくない言葉を無理に言わされている人間のように、言葉を一つ一つ区切るようにゆっくりと、その事実を氷河に告げたのである。 「君のお母さんが倒れた。おそらくもう助からない。君は今すぐお母さんの許に帰って、彼女に その姿を見せてやりたまえ」 「……!」 男の言葉は、氷河を驚かせた。 氷河は、尋常でない衝撃を受けることになった。 だが、氷河は、自分がいったい何に驚いているのかが よくわからなかったのである。 母の命がもう長くないこと。 聖域を出るように言われたこと。 この男が、聖域のルールを曲げて、聖闘士でない者に それを許すこと。 確かに、そのいずれもが、思いがけないことであり、衝撃的な事柄ではあったのだが。 「聖闘士になっていない者は――聖域から出ることはできないと言っていなかったか」 聖域の場所や内情を、外界の者に知られるわけにはいかない。 だから、聖域に入ることができる者は、その一生を聖域とアテナに捧げる覚悟をした者だけ。 一度聖域に入り外に出ることのできる者は、聖域の人間として誤った判断を為すことはないと認められた者――つまりは、聖闘士――だけ。 氷河は、幼い頃から彼にそう言われ続けていた。 再び母に会いたかったら聖闘士になるしかないのだと、繰り返し言われ続けてきたのだ。 まだ聖闘士になっていない者が聖域の外に出ることを許される――。 この男が 人間の情よりも聖域の掟の方を重んじる男だということを知っている氷河は、彼の言葉をそのまま信じるわけにはいかなかった。 自分が聖域の外に出ることには、何らかの条件もしくは制限が加えられるに違いない。 それで瞬は沈んでいるのだと、氷河は思ったのである。 そして、案の定。 混乱している氷河に、彼は、 「君の記憶を消させてもらう。君は二度とここに戻ることはできなくなる」 と宣告してくれたのである。 彼が感情を抑えた声でそう言おうとしてくれていることは 氷河にもわかった。 だが、言葉の意味は冷酷そのもの。 氷河は動揺しないわけにはいかなかった。 「記憶を消すとは……どうするんだ」 「私の小宇宙で、君の脳の記憶域に直接 働きかける。一種の催眠術のようなものだな。君は、ここでのことをすべて忘れることになる。聖域はどこにあるのかと、人に問われても、君は答えることはできない」 それで聖域の秘密が守られるなら結構なことである。 しかし、氷河はそんなことより――彼には、何があっても忘れてしまいたくないことがあった。 彼には、何があっても忘れるわけにはいかない人がいたのだ。 「瞬を――瞬のことも忘れるのか。瞬はなんて――」 「お母さんに会うのが君の幸福だから、行かせてやってくれと、瞬は言っていた」 「だが、瞬は寂しがりやで泣き虫で、一人では到底――」 「君のためになら、耐えられると」 「嘘だ!」 それ以上 男の話を聞きたくなくて、氷河は思わず鋭く叫んでしまっていたのである。 嘘でないことはわかっていたのだが。 瞬は耐えるだろう。 耐えようとするだろう――ひとりで泣いて。 聖闘士になどならなくてもいい。 母の許に帰ってもいい――。 そう言われることを、氷河は幼い頃から願い続けていた――はずだった。 願い続けていたことを ついに許されたというのに、氷河は彼の言葉を少しも喜ぶことができなかった。 |