母の許に帰らなければならないことはわかっていたし、実際に氷河は帰りたかった。 母に会いたい。 そして、もちろん、自分は母に それはわかっていたのだが、氷河は、聖域を出ることによって自分が失うだろうものを失いたくもなかったのである。 どうすればいいのかと悩むうちにも時間は過ぎ、瞬は 既に二人の別れが確定したものであるかのように振舞っていた。 母のための薬草や食べ物や こまごまとした雑貨を揃えるために奔走している瞬を見ていると、氷河はどうにも仕様がないほど複雑な気持ちになった。 明日には氷河が聖域を出るという日になっても、瞬は、7年間を共に過ごしてきた仲間との別れを変えようのないものと信じているようだった――変えるつもりはないようだった。 その夜、瞬は氷河の部屋に来た。 瞬が何か言ってくれることを期待している氷河の前で、だが、瞬は、明日には離れ離れになる仲間の姿を無言で見詰めるばかり。 それが見納めというように切なげな眼差しで、瞬は氷河を見詰め続けるだけだった。 そうして、二人の間にある空気の息苦しさに耐え切れず、先に口を開いたのは氷河の方だったのである。 「行くなと――俺を止めないのか。止めてくれないのか」 止めても帰るくせに――と、瞬の瞳が寂しげに揺らめき、それでいいのだと微笑む。 瞬に止められても母の許に帰る自分を、氷河自身も知っていた。 「僕は、7年間も、氷河のお母さんから氷河を奪って独り占めしてきた。止めることなんてできない」 「俺がいなくなっても、おまえは泣かずにいることができるのか」 「もちろんだよ」 氷河にそう問われることを察して、瞬は事前に答えを用意してきていたのだろう。 瞬は即答した。 はらはらと涙を零しながら。 おそらく、その涙に言及されることを避けるために、瞬は氷河の側に歩み寄ってきた。 氷河が仲間の涙を見ることができなくなるほど近くに。 そして、言った。 「子供の頃みたいに、今夜は一緒に眠らない?」 「俺がなぜそうするのをやめたのか、理由を知っているのか」 「……あの時は、氷河がそんなこと言い出した理由がわからなくて、氷河は僕を嫌いになっちゃったんだと思って大泣きした。ごめんなさい。あれは僕のためだったんだね」 「……」 瞬は気付いていないのだと思っていたので――瞬のその答えに、氷河は少なからず驚いた。 同時に、瞬が気付いていてくれたことに、安堵のような思いを覚える。 いつからか――瞬は知っていてくれたのだ。 「あの時、俺は初めて、誰かのために自分の意思を曲げることをしたんだ」 低い声でそう言ってから、自嘲気味に軽く頭を振る。 「いや、あれも結局は自分のためだったのかもしれない。俺は、あさましいことをして、おまえに嫌われたくなかった」 「僕は氷河が好きだよ。だから、ここに来たの」 瞬の指が、氷河の髪に絡む。 「俺は明日にはおまえのことを忘れるんだぞ。それでも――」 氷河の髪に絡んでいた指が、氷河の唇に触れ、彼の唇を遮る。 「これは僕の我儘なの。僕がこれから一人で生きていくために必要なことだから、僕は氷河に我儘を言うの。僕は氷河を忘れたくないから」 瞬の指に逆らえず、氷河は自分の言葉を諦めた。 瞬はもう、そうすることを決めているのだ。 何を自分のものとするか。 そのために、何を捨てるのか――を。 「僕には、自分のすべてを委ねることができるくらい好きな人がいた。そう思えることが、これからの僕を生かし続けてくれると思うから」 「そうして、おまえは、ここで聖闘士になるのか」 「うん。ごめんね、一緒にいけなくて……」 「いいさ。おまえから、ここでの7年間を奪うわけにはいかない」 二人して聖域を出るという道もあることに、氷河は幾度も考えを及ばせていた。 彼がついに そうしてくれと瞬に言えなかったのは、二人で過ごしてきた7年間を何があっても捨てたくないと 瞬が思っていることを知っているからだった。 その7年間を失ってしまわないために、瞬が聖闘士になる道を選んだことを知っているから。 氷河と瞬は二人で支え合いながら生きてきた長い時間を抱きしめるように、互いを抱きしめた。 大切なもの――何よりも、誰よりも大切なものを、心のすべてで抱きしめて、そして、氷河は聖域をあとにしたのである。 |