正式に聖闘士の称号を得れば聖域の外に出ることもできるのだと、瞬を聖闘士に育てあげた男は幾度か瞬に言ってくれたのだが、瞬はなかなかその決意をすることができなかった。 そのために、一人ここに残ったというのに。 聖闘士になって 一生を聖域に捧げる覚悟ができないのか、聖闘士として聖域の外に出て、仲間のことを忘れ新しい人生を生き始めている氷河の姿を見るのが恐いのか――。 自分をためらわせる理由をいくつも考え、考えつくたびに その理由を否定して、瞬は自分を鼓舞し続けたのだが、それでも瞬は正式に聖闘士になる気になれなかった。 瞬が思いつく それらしい理由など、実はどれも本当の理由ではなかった。 瞬はただ本当に、その気になれないだけだったのだ。 もうずっと長いこと、自分は氷河と一緒に聖闘士になるのだと信じて修行を積んできた。 共に聖闘士になるはずだった氷河がいないから、瞬は こんな気持ちで聖闘士になってしまったら、それこそアテナへの不敬だろうと思う。 聖闘士が出ていかなければならないような戦いでも起こってくれたなら、瞬は、地上の平和と安寧を守るためにも聖闘士になることをためらってはいられなかったろうが、あいにく――否、幸いなことに――今、地上は平和。 戦うべき敵がいないという孤独を抱えた戦士には仲間が必要なのに、瞬はその仲間を失ってしまったのだ。 「氷河がいないからって、いつまでも腑抜けたままでいちゃいけないのに――」 もう半年近く、中途半端な状態で無為に時間を過ごしてきた。 たとえ じかにこの手で触れることのできないものであっても、何か新しい希望と目的を見付け、自分はもう一度生きることを始めなければならない。 瞬は毎日、自身にそう言い聞かせていた。 聖域の北辺に足を向け、北の空を見詰めながら。 考えていることと行動が真逆な自分を不甲斐ないと思い、苛立ちも覚えるのだが、瞬はどうしても そんな自分を変えることができなかった。 「まったくだ。こっちは おまえの小宇宙を頼りに聖域に潜り込んでやろうと思っていたのに、おまえの小宇宙が弱くなりすぎているせいで、無駄に時間を食ってしまった」 その日も、瞬は、聖域の北辺にある、元は小さな幣殿があったらしい場所に立ち、北の空を見詰めていたのである。 その瞬の背後から、聞こえてはならない声――聞こえるはずのない声――が聞こえてきた。 あまりに寂しくて、自分は幻聴まで聞こえるようになってしまったのかと疑いながら、それは幻聴に決まっているのだから期待してはならないと懸命に自分に言い聞かせながら、瞬は後ろを振り返ったのである。 「聖域の場所がわからなくて――2ヶ月前には この辺りにまで来ていたんだが、聖域への入り口を見付け出せなくて、ずっと迷っていたんだ。アテナの結界というのは、外界からの侵入者に対するめくらましも兼ねているらしいな」 そこには、ここにいるはずのない人、瞬が毎日見詰めていた北の空の下にいるはずの人が立っていた。 わざと苦々しげな顔を作っているようだったが、その青い瞳は 間違いなく笑っている。 「氷河……どうして……。氷河はここでの記憶をすべて失って……お母さんは……」 「母は3ヶ月前に死んだ」 「あ……」 たとえ氷河の瞳が笑っていても、それをそのまま信じるわけにはいかない。 氷河が永遠に失ってしまったもの、氷河が耐えなければならなかった悲しみに思いを馳せ、瞬の胸は強く痛んだ。 だが、氷河の瞳は、なぜか ひどく明るいのだ。 その瞳に明るい微笑をたたえたまま、氷河は言った。 「瞬の話をしたら、彼女は、俺の方が驚くほど喜んでくれた。彼女は、俺が母親以外に信じられる人を持っていないことがずっと不安だったんだそうだ。俺に自分以外の大事な人を作ってほしいから俺を手離したのだと、彼女は言っていた。俺を瞬に会わせるために」 『そんなに大事な人がいるのなら、マーマがいなくなっても氷河は大丈夫ね』と、彼女は幾度も笑って言ったのだそうだった。 『これで、私は母親としての務めを果たすことができた』と。 彼女の息子が泣いていないというのに、瞬の瞳からは次から次へと涙があふれてきて、それはどうにも止めようがなかった。 「僕が いい気になって氷河を独り占めしていた間、氷河のマーマはずっと氷河を見守り育ててくれていたんだね」 そんな悲しい、それほど強く厳しく美しい愛情を持っていた人を失ったのだ。 氷河が彼女の死を悲しまなかったはずはない。 だが、それでも今 氷河の瞳が明るく輝いている訳が、瞬にはわかるような気がしたのである。 彼女は氷河を愛していた。 そして、彼女は、彼女が決めた彼女の生の目的を、鮮やかにやり遂げたのだ。 瞬は、氷河の胸の中に飛び込んでいった。 |