可愛い悪魔

- I -







スキュティアの領主は、戦場においては悪鬼のごとく勇猛果敢、敵に対しては情けを知らず残酷無比、味方に対しては冷酷なほど傲岸不遜。
その姿は地獄の悪魔もかくやとばかりに醜悪で、所作は獰猛凶悪、彼の眼光は無慈悲そのもので、恐怖によって人の心を凍りつかせるほど。
人としての知性も備えていない北の野蛮人。
人間の血を求めてやまない人面獣心の殺戮者。
――と、スキュティアの領主は国の内外で恐れられていた。

都から遠く離れた北辺の領主。
国境を侵そうとする者をことごとく撃退し、兵を率いた戦でも、一対一の剣の立ち合いでも敗北を知らないスキュティアの公爵。
特に国の南方では、スキュティア卿は、北の悪魔・北の邪神と噂され、もはや人の姿をしたものとは思われていなかった。

だが、だからこそ、国王にとっては、彼は得難い家臣・頼もしい戦士でもあったのだろう。
国の北方には信じる神を異にするアスガルドの国があり、その侵略を防ぐためにもスキュティアの領主の強さは、この国に必要なものだったのだ。
スキュティアの領主が侵略者を撃退するたびに、国王は彼に地位を与え、金品を与え、領地の加増を行なった。
国の防衛の褒賞を与え尽くした国王は、最後に彼に与えるものに窮してしまったに違いない。
彼は、野蛮獰猛の評判のせいで奥方のなり手のないスキュティアの公爵に美しい花嫁をプレゼントしようなどという、とんでもない考えを起こしたのである。

「国いちばんの勇士にして国いちばんの大貴族の奥方には、国いちばんの美女がふさわしい」
と、国王は能天気に言ったのだそうだった。
「ところで、我が国で最も美しい未婚の貴族の令嬢というと、誰だろうな」
と。
国王からの相談を受けた大臣が、国王以上の無責任さで、
「それは、何と言ってもリビュア伯爵家のご令嬢でしょう。御歳16歳。春に咲き染める薄桃色の花のように清楚可憐なご令嬢との噂です」
と答えたのが事の発端。
能天気な国王は早速、リビュア伯爵家に、その令嬢をスキュティア公爵家に嫁するよう命令を出し、その命令がリビュア伯爵家の令嬢の運命を変えることになったのだった。

『春に咲き染める薄桃色の花のように清楚可憐』と噂されているリビュア伯爵家の令嬢は、国王からの命令を聞いて震えあがったのである。
決して、スキュティア公爵が恐ろしかったからではない。
もちろん、人としての知性を持たない凶暴な北の悪魔・北の殺戮者と噂されるスキュティア公爵は恐ろしかったが、北の悪魔と結婚しろと命じられた普通の貴族の令嬢が恐れるものとは違う恐れに、リビュア伯爵家の令嬢は襲われることになった。
なにしろ、凶暴な北の悪魔との結婚を命じられた『春に咲き染める薄桃色の花のように清楚可憐』と噂されている人物は、未婚の貴族の“令嬢”ではなく、未婚の貴族の“子息”だったのだ。
名前は瞬。

瞬が、『春に咲き染める薄桃色の花のように清楚可憐な令嬢』と噂されるようになったのは、瞬が自らの性を偽っていたからではない。
もちろん彼に女装の趣味があったからでもない。
ある人物が、瞬を、この国のどんな令嬢より美しいと褒め称えたからだった。
その人物は国中の貴族の令嬢を見知っていたわけではなかっただろうが、彼が稀代の無骨者として名を馳せていた男で、女性に興味を持つことなどありえないとまで噂される男だったことが、その発言に妙な信憑性を持たせることになったのである。

その稀代の無骨者が瞬の兄だった。
そして、彼自身は冗談混じりの軽口で言った言葉だったにしても、彼の発言を直接聞いた人々は誰ひとり彼の見解に異議を唱えず、彼の城に居住する者たちや彼の領地の領民たちのことごとくが、『その通り』だと(おそらくは冗談で)認めてしまったことが、この大災難を瞬の許にもたらすことになったのである。
瞬の兄の口から出た冗談は、やがて“噂”というものに変化した。
つまり、瞬を直接知らない者たちの口に膾炙されるようになった。

その噂は、時間と距離を経るにつれ、どこかで真実の意味が捻じ曲がり、あるいは誤解されて、やがて都の王宮にまで達した。
その頃には、『我が弟は、(男子であるにもかかわらず)この国のどんな令嬢より美しい』という瞬の兄の発言の真意は失われ、『リビュア伯爵家の令嬢は春に咲き染める薄桃色の花のように清楚可憐、この国のどんな令嬢より美しい』という噂だけが一人歩きを始めてしまっていたのである。

だが、王宮に届いた噂がどんなものであれ、国中にどんな噂が蔓延していても、瞬が男子である事実は変えられない。
『春に咲き染める薄桃色の花のように清楚可憐な令嬢』と噂されている人物は、正真正銘の男子なのだ。
当然、スキュティア卿の妻にはなれない。

それだけなら、噂の真相を正直に国王に言上し 容赦を願えばいいだけのことだったのだが、現在 リビュア伯爵家は そういう対応ができない状況にあったのである。
なにしろ、問題の噂の火元である瞬の兄――つまり、現リビュア伯爵家当主――が生来の放浪癖を出して、1年ほど前から行方不明になっていたのだ。
幸い、代々リビュア伯爵家に仕えている忠義かつ有能な家令がいたため、領地の運営に支障はなかった。
が、王に爵位と領地を与えられ、代償として王への忠誠を示す封建制の中にいる貴族の家は、領内が治まっていればそれで済むというようなものではない。

この1年の間、リビュア伯爵家は、西方の国からの侵略阻止のための兵の召集、国王の戴冠5周年記念の祝賀、王宮の修理改築のための夫役と、3度も国王からの召集を受けながら、そのすべてを断ってきた。
当主の病や怪我等、何とか理由をつけて王命を拒み続け、リビュア伯爵家は 王室に不義理不忠の限りを尽くしている状態だったのだ。
それでなくても、当主が領内を治める義務を怠っている現状。
その領主が行方不明では、領地没収・爵位剥奪もありえないことではない。
リビュア伯爵家は、今は 国王の機嫌を損ねる訳にはいかなかった。

瞬は悩んだあげく、『リビュア伯爵家の娘は子を儲けることができない身体である』という理由を付して、またしても王の命令に従うことをしなかった(決して嘘ではない)。
さすがに王から何らかの咎めが下るだろうと思ったのだが、国王は、美徳とも思えるほどの能天気さで――美徳だろう――、「では、スキュティア公には、我が国で二番目に美しい令嬢を」と、即座にターゲットを変更してくれたのだ。

瞬は、ほっと安堵の胸を撫でおろすことになったのだが、それも束の間のこと。
ほどなくして瞬の許には、瞬の代理としてスキュティア卿の花嫁候補に選ばれたミュシア子爵家の令嬢が、他に並ぶものとてない残虐非道の野蛮人の妻にさせられる己れの運命を嘆き、怯え、日々泣き暮らしているという噂がもたらされた。

聞けば、ミュシア家の令嬢は、リビュア伯爵家とは 瞬の亡き母を通じた縁続きになるという話。
この事態に大いに責任を感じて、瞬は、その令嬢の許に謝罪のために赴いた。
真実を知らせてどうなるものでもなかったろうが、瞬は、リビュア家の娘が王の命令を拒絶したのには やむにやまれぬ事情――指名を受けた者が男子だという事情――があってのことだと告げて、ミュシア子爵家の令嬢の許しを乞わずにはいられなかったのである。

遠い親戚同士の対面は、ミュシア子爵家の者たちを非常に驚かせることになった。
瞬とミュシア家の令嬢――エスメラルダといった――は、双子と見紛うほどに その顔立ちが似ていたのだ。
歳は、エスメラルダの方が1歳年上。
とはいえ、瞬は、人が言うほど二人が似ているとは思わなかった。
エスメラルダは、それこそ可憐な花のような風情をしていて、善良で繊細で細い線の持ち主だった。
仮にも男子である瞬は、そんなエスメラルダに似ていると言われるたびに、複雑な気持ちにならないわけにはいかなかったのである。
その か弱い花は、瞬がミュシア子爵家を訪れた時には既に、家族と一門のために遠い北国の野蛮人の許に嫁ぐ覚悟を決めていた。
謝罪に赴いた瞬に対しても、彼女は逆に気遣うような微笑を向けてくれた。

その健気に打たれた瞬は、ミュシア子爵家に対して、エスメラルダの輿入れに騎士として供をすることを申し出たのである。
瞬は、いざという時には、本当のことを正直にスキュティア公爵に告げて我が身に彼の罰を受け、その代償として北の悪魔にエスメラルダの帰還を願い出るつもりだった。

北の悪魔・獰猛な北の野蛮人の噂に恐れおののいていたミュシア子爵家の者たちは、瞬の申し出を非常に喜んでくれた。
それでなくても、スキュティアは遠い。
エスメラルダの輿入れに同行の意を示していたのは、幼い頃からエスメラルダに仕えていた侍女ひとりだけで、彼女以外の者たちは皆、スキュティア行きを尻込みしていたのだ。
エスメラルダも、瞬の申し出を遠慮がちに喜んでくれた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ありがとう、瞬」

この運命に でき得る限り耐えたいと健気なことを言うエスメラルダを命をかけて守ろうと、その時 瞬は固く決意したのである。






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