氷河が瞬を連れていったのは薬草の管理室ではなく、彼の部屋――スキュティア公爵の私室だった。 廊下に面した扉とは別に幾つかの扉があって、その扉の数だけ続き部屋があるらしかったが、その瞬が招かれた部屋自体は非常に素朴な、装飾品・贅沢品と呼べるようなものが何ひとつ置かれていない部屋だった。 部屋の主人がこれほど華やかな姿の持ち主でなかったなら、瞬はその部屋に暗く陰鬱な印象を抱いてしまっていたかもしれない。 そこは、樫の木でできた大きな机と、水差しの置かれた単脚の台、椅子が一つと寝台があるだけの部屋だった。 そのたった一つの椅子に瞬を座らせて、彼自身は立ったまま、氷河は瞬のシャツの袖をまくりあげた。 そこに、目を凝らさなければ見付けられないほど小さな痣がある。 スプーンの柄にしばらく手を押しつけていれば、同じような痣ができるかもしれないという程度の、それは あまりにもささやかな“負傷”だった。 「氷河の剣は、袖の布だけを裂いたんですよ。ほんとに痛みは感じなかったし、氷河は大袈裟すぎるの」 笑ってそう言ってから、瞬はふと、そして初めて、ある懸念を覚えたのである。 しばし逡巡してから、瞬は、心配そうに瞬の細い腕を見詰めている氷河に尋ねた。 「氷河……もしかして、僕に手加減をしてます?」 「……」 氷河からの返事はなかった。 本当に彼は瞬との立ち合いに手心を加えていたのだろうか。 だとしたら、それは、瞬にとっては この上ない侮辱だった。 それ以前に、互いに力を出しきって、その上で自分たちは ほぼ互角の勝負を楽しんでいるのだと思っていたのに、実は自分は氷河に子供扱いされていたのだと思うと、瞬はそれがひどく悲しかった。 怒りより悲しみに、瞬は支配されていた。 「僕を子供だと思って、適当にあしらっていたの――」 悲しまずに腹を立てろ! と、瞬は自分の心に命じたのだが、瞬の心は瞬の命令に従ってくれなかった。 自然に顔が伏せられていく。 氷河は、その瞬の前に片膝をつき、なぜか困惑したような目をして、瞬の顔を覗き込んできた。 「俺は全力で当たっているつもりだ。だが、この――」 氷河が、その右の手を瞬の頬に添える。 「おまえのこの綺麗な顔や瞳を見ていると、絶対に傷付けることはできないという気持ちが湧いてきて――俺は、無意識のうちに萎縮してしまっているのかもしれない」 「氷河……」 「よくわからん。ただ――」 剣を交えていた時の屈託のない笑顔は、今は氷河の上からすっかり消え去っていた。 何かを思い詰めているような氷河の瞳――と眼差し。 自分の考えを言葉にし、声に出してしまうことを、彼はためらっているように瞬には見えた。 結局、彼は、その考えを言葉にしたのだが。 「俺の母は――スキュティア卿の母ほどではないんだが、俺の母も美しい人だった。自慢の母で――だが、この頃、時々、母より瞬の方が綺麗に見えるんだ。これは、母と違って、おまえが生きているから――なんだと思う」 「あの……」 スキュティア卿が重度のマザコンだという兄の言は、冗談ではなく本当のことだったらしい。 氷河の語る彼の懸念と不安を深刻なものと思うことができなくて、瞬はつい小さな苦笑を洩らしてしまったのである。 それが氷河の気に障った――らしかった。 「おまえはなぜ、俺の顔を見るたびに笑うんだ……!」 氷河の声が苛立つのは、彼にとっては彼の母親が何よりも神聖な存在だからなのだろう。 彼が彼の母を語る時、彼は他のどんな時よりも厳粛な気持ちでいるのだ。 その氷河に、『マザコンのスキュティア卿が可愛いから』などということは、絶対に言えない。 瞬は急いで苦笑めいた笑みを消し、違う種類の微笑を作った。 「氷河と一緒にいるのが楽しいからですよ」 それは決して嘘ではなかった。 両親を早くに亡くし、それでも兄に守られて、少々の気苦労はあったにしても、これまで自分は相当に恵まれた暮らしをしてきたと思う。 だが、それらのどんな日々も、今 この北の果ての国で氷河と共に過ごしている時間ほど楽しくはなかったのだ。 「俺もだ」 嘘ではないが、完全に真実でもない言葉――氷河の不機嫌を取り除くために急ごしらえで発した言葉。 そんな言い訳にごまかされてはくれないかもしれないと思っていた氷河が、即座に瞬に同意してくる。 「え」 瞬は少し面食らって、氷河の青い瞳を覗き込むことになったのである。 氷河の瞳は真剣そのものの色をたたえて、瞬を見詰め返していた。 「エスメラルダ嬢がこの家の女主人になれば、おまえもずっとここにいてくれるのか」 「それは……あの……」 「いてくれ。いつまでも。俺は、いつもおまえと一緒にいたい。俺は、俺の母より美しいと思える人間に初めて会った」 それはいったいどういうことなのか――瞬は、混乱しないわけにはいかなかったのである。 スキュティア卿の母より美しい人は、彼が妻に迎えるべき人のはずだった。 しかし、瞬はその資格も権利も有していない。 その資格があったなら、最初に国王の命令があった時、瞬は自ら この地に乗り込んできて、その上で自分の意思で自分の運命を決めていたはずなのだ。 その資格のないリビュア伯爵家の“子息”の肩を抱きかかえるようにして、氷河が瞬の唇に唇を重ねてくる。 「あ……」 肩を掴んでいる氷河の手が熱くて、逃げられない。 この事態に青ざめなければならないと思うのに、その心に反して、瞬の頬はばら色に上気した。 氷河が、そんな瞬を嬉しそうに見詰める。 「逃げるのだけはうまいと言っていたから、逃げられるかと思った。よかった」 「あ……」 どうしてそうしなかったのか、他の誰よりも瞬自身が、そんな自分の行動を――否、反応を――奇異に感じていた。 「この館の主が誰を妻に迎えようと、そんなことはどうでもいい。俺はおまえが欲しい」 「氷河……」 氷河の青い瞳が、冷たいのか熱いのかがわからない。 その瞳に射すくめられると、目眩いがする。 実際に、瞬の身体は大きく ぐらりと揺れかけたのである。 氷河の腕が、そんな瞬の身体を抱きとめ、その胸の中に抱きしめる。 出会ってまだ半月足らず。 北の悪魔という噂は、一抹の真実を含んだ噂だったのではないかと、瞬は思い始めていた。 でなければ、今の自分の状態が説明できない。 氷河に見詰められただけで身動きができなくなるという、この状態、今の自分。 逃げたいという気持ちはあるのに、身体が言うことを聞いてくれないのだ――。 |