氷河の愛撫の下で、この愛撫をいつまでも失うことがないのなら、他のことはどうなっても構わないとさえ感じていたのに、氷河の愛撫から解放されると、瞬は従前の理性と判断力を取り戻してしまった。 氷河を責めようとも思わないし、後悔もしていない。 今すぐにでも、もう一度 氷河に貫かれ、気が遠くなるような あの感覚に身も心も委ねてしまいたいとも思う。 だが、瞬がそうされたいと願う相手は、エスメラルダの未来の夫。 そして、瞬は、彼に嘘をついて、彼から逃げ出した花嫁なのだ。 事実を氷河が知ったら、彼は、彼から逃げ出した花嫁をどう思うのだろうか――? 彼は、もちろん烈火のごとく怒るだろう。 そして、エスメラルダを妻に迎える。 瞬は、それは絶対に嫌だった。 かといって、氷河への秘密を秘密のままにしておけば、氷河は、瞬を彼の許に留め置くためにエスメラルダを妻に迎えるかもしれない。 氷河の側にいるために、エスメラルダを裏切り続けることは、なおさらできない。 瞬は、心底からそう思っていた。 だが、氷河に貫かれるあの感覚を思い出しただけで、身体が疼くのだ。 氷河は、氷河こそが瞬のものになったと言っていたが、氷河のものになったのは やはり瞬の方だった。 氷河がいないと、彼に抱きしめてもらえないと、自分はもう生きていられないような気がしてならないのだ――。 『今日から、ここがおまえの寝室だ。今夜もここに来るんだぞ』 そう言いながら、氷河は瞬に衣服を着け、名残り惜しげに瞬を解放してくれた。 夜が訪れたなら、自分は氷河の許に行かずにはいられなくなるだろう。 それは、認めたくない確信だった。 そんな自分がわかるからこそ、そうなる前に――瞬は、幼い頃から、つらいことに出合った時いつも逃げ込んでいた場所に逃げ込んだのである。 つまり、瞬は、兄に泣きついたのだった。 瞬は、他に為す術を見付けることができなかったのだ。 「どうしよう……。兄さん、僕、どうしたらいいの……! 僕は氷河と離れたくない。でも、エスメラルダさんも裏切れない。僕は――」 瞬が思い悩み憔悴し、その上 泣きはらした目をそのままにして兄の許に赴いたのは、おそらく大きな誤りだった。 その理由を問われ、まず自分と氷河の間に起こった出来事を、蚊の鳴くように小さな声で兄に知らせてしまったことが。 「氷河がおまえを力づくで犯したというのか」 瞬が自身の心の内に言及しようとした時には既に、瞬の兄は、弟の告白を落ち着いて聞いていられる状態ではなくなっていたのである。 「ち……違うんです。僕は氷河が好きだから、それはいいの。でも、僕は氷河に嘘をついて彼から逃げ出した。その上、エスメラルダさんまで裏切るなんてことできない。僕はもう氷河に嘘はつきたくない。僕はどうすれば――」 「かわいそうに。おまえの恨みは、この兄が必ず晴らしてやるからな」 瞬の兄が、身も心も傷付いている(はずの)弟を ひしと抱きしめる。 これ以上 瞬の話を聞いていると、その分 復讐の時が遅くなると言わんばかりに――瞬の兄は瞬の話を聞こうともせず、憎悪の炎を燃やすことに専心していた。 「兄さん、そうじゃなくて……兄さん!」 そんな状態でいる兄弟の許に氷河がやってきたことが、瞬の不運を決定的なものにした。 氷河はそこに瞬を抱きしめている男の姿を見い出し、瞬の兄より激しい怒りを一瞬にして培ってしまったのである。 「一輝! 貴様、瞬に何をしている! 瞬を放せっ」 「貴様こそ、瞬に何をした! こんなに泣かせて、傷付けて――。さすがは残虐非道な野蛮人。今まで貴様の本性に気付かずにいた自分に腹が立つ!」 偽のスキュティア公爵の糾弾を、氷河は当然のごとく、居直りの言い掛かりだと思ったのである。 瞬の身体に無理を強いたのは事実だが、そのことで瞬は氷河を責めるようなことはしなかったし、激情にかられた恋人に愛撫され貫かれた瞬の身体は、間違いなく その行為に歓喜していた。 あれほどの交わりを交わることができた恋人が、その恋人のせいで涙することなど あるはずがないのだ。 「俺がどうして瞬を泣かせたりする……」 だが、見れば、瞬は泣いていた。 氷河を責める男の胸の中にいる瞬の頬は、確かに涙で濡れていたのだ。 「瞬……」 しかも、瞬は、偽のスキュティア公爵の手を振り払おうともせず、瞬の白い手は その男の胸に添えられてさえいる。 氷河は、訳がわからなかったのである。 この事態、この状況が、全く理解できなかった。 瞬が氷河の下で切なげに可愛らしく喘いでいたのは、あまつさえ、氷河の欲望をその身に受けとめてくれたのは、ついさっき――ほんの数刻前のことだったというのに。 氷河にわかったことはただ一つ。 瞬を他の誰にも奪われたくないという、己れの中にある激しい渇望だけだった。 「たとえ……たとえ、瞬が俺ではなく 貴様を選んだのだとしても――それなら、俺は、貴様を殺して、瞬を俺のものにする!」 「氷河……!」 いったい氷河は何を言っているのか。 「できるものなら、やってみろ」 いったい兄は何を言っているのか。 馬鹿げた誤解のせいで怒り心頭に発している氷河と、その氷河をせせら笑って挑発している兄。 そんな二人に混乱させられてしまったせいで、瞬の現状把握の作業には数秒の時間がかかった。 その数秒の間に、瞬の兄と氷河が、それぞれの剣を抜く。 そして、『やめてくれ』と瞬が二人に懇願する前に、彼等の剣は彼等の“敵”に向かって振り下ろされてしまっていた。 氷河と瞬の兄の立ち合いは滅茶苦茶なものだった。 場所が剣を振るうための空間ではなく、椅子やテーブルのある室内だということもあったろうが、それは正視に耐えないほど滅茶苦茶で――同時に、自分と氷河のそれが児戯にも思えるほど激烈なものだった。 瞬の兄に対峙した氷河の所作には、瞬が見慣れた あの美しさは皆無。 流麗な所作も、巧みな技術も、マナーも何もない。 ひたすら力任せに――否、自分の内の憎しみに命じられるまま、二人は“敵”に向かって剣を振り下ろしていた。 氷河も瞬の兄も攻撃することしかしない。 彼等は、相手を倒すことしか考えていない。 相手の剣をかわす間すら惜しんで、彼等は彼等の敵を突き殺そうとしていた。 その圧倒的な迫力――に、瞬はその場に立ち尽くしてしまったのである。 二人は二人共が、異様に殺気立っていた。 なぜ自分が この二人と互角に戦えると うぬぼれていられたのか、今では瞬はそんな自分自身が理解できなかった。 この二人に本気で挑まれていたら、自分はすぐに その剣で突き殺されていたに違いないというのに。 それほどの二人だからこそ――この戦いを止めなければ、どちらかが――あるいは二人共が命を落としかねない。 二人の剣に圧倒されている場合ではないと 瞬が我にかえったのは、剣を振るうのに邪魔な卓を、氷河が蹴り飛ばした時だった。 卓の上にあった陶器の水差しが床に落ち、割れた破片が氷河の頬に傷をつける。 「やめてっ! 二人共……氷河、やめて!」 『おまえのこの綺麗な顔を瞳を見ると、絶対に傷付けることはできないという気持ちが湧いてきて――』 氷河が言っていたあの言葉が、身に染む。 瞬は、氷河に傷付いてほしくなかった。 「やめてくださいっ」 だが、瞬が何を叫んでも、二人はその剣を振り回す行為をやめてくれなかった。 |