性行為に罪悪感を抱いているピューリタンのよう――といっても、氷河が手を差しのべれば、瞬はすぐに自分の手を氷河のそれに預けてきてくれた。 星矢が『下半身の力を使って瞬に白状させろ』という、とんでもない言葉で瞬の恋人をけしかけてくれた その夜も、それは変わらなかった。 瞬は氷河に何事かを言われる――責められる――と思っていたらしく、氷河がいつもと同じように何も言わずに手を差しのべると、それで安心したのか、いつより早く その身を氷河の腕と胸に預けてきてくれさえした。 そんな瞬の様子を見せられて――氷河には、やはり、どうしても、瞬がこの行為を嫌がっているとは思えなかったのである。 身体を重ねれば、なおのこと、氷河はそう思うことができなくなった。 幾度 同じ夜を過ごしても、そのたび恥ずかしがりはするし、思いがけない反応を示す自身の身体に戸惑っているようなところもあるのだが、瞬がこの行為によって快楽を得ていることは、氷河の目には明らかだった。 大きな声をあげたり、自分から愛撫をねだったりすることは みだりがましく図々しいことだと認識しているらしい瞬が、理性と五感の位置が逆転した途端、それまで耐えていた分、大胆に喘ぎ求め始めるのは、瞬が性行為による快楽をその身で享受しているからだとしか、氷河には思えなかったのである。 恋人の愛撫の下で、瞬は、のびやかに しなやかに反応し 歓喜してみせたし、氷河を驚かせることには、その身体を同性の性器で貫かれ相当の苦痛を強いられている時にさえ、瞬の唇から洩れるのは歓喜の声だけだった。 瞬がこの行為に嫌悪感を抱いている、もしくは 満足していないということは、氷河には到底考えられないことだったのである。 「あ……あっ……ああ、ああ……!」 瞬は自制心を保ちたいと願うのと同じだけの強さで、一瞬でも早く自制心を失いたいと願っている――おそらく。 そして、その瞬間を迎えると、瞬は浜辺の岩と大地に縛りつけられていた鎖から解放され自由を取り戻したエチオピアの王女のように豹変するのだ。 徐々にのけぞっていく喉、しがみついてくる腕、焦らされれば自分から押し当ててくる腰や脚、その指先、爪先に至るまで、瞬の身体は恋人を我が身に受け入れることを喜んでいる。 いったい何が不満なのか、そもそも瞬は本当に何らかの不満を抱えているのかということすら、氷河にはわからなかった。 氷河自身には何も不満もなく、むしろ自分ごときがこれほど素晴らしいものに巡り会い、我がものとして独占してしまっていいのかと、らしくもなく謙虚な思いで、この幸運に感謝することしかできずにいるだけになおさら、瞬の不満が(その有無からして)氷河には わからなかったのである。 ただ、その熱狂的な交歓の時が終わると、瞬がまるで別人のように よそよそしくなってしまうのは事実だった。 以前も、我を忘れて喘ぎ乱れた自分への羞恥に囚われることはしていたと思う。 だが、瞬は、以前であれば、氷河の視線を避けるにも、恥ずかしそうに氷河の胸に頬を押し当てることでそうしていた。 その瞬が、最近は、氷河が抱き寄せようとしなければ、二人が触れ合うことをすら避けたいと思っているように、我が身を氷河から引き離すようになっていた。 その夜も、氷河が瞬の中から身を引くと、瞬はまだ息も整っていないうちから、氷河から離れてベッドの端に逃げる素振りを見せた。 おそらく、瞬の身体の奥には交合の余韻が残っている。 瞬の肩と胸は、まだ大きく上下していた。 そんな状態だというのに――本当なら、気怠いどころか、動くのもつらいはずなのに、それでも瞬は少しでも恋人の側から離れようとして もがくのだ。 瞬にそんな様を見せられて――氷河は、訊きたくないことを言葉にしないわけにはいかなくなってしまったのである。 「おまえは後悔しているのか」 それでも、瞬の呼吸が整うのを待ってやってしまうあたり、やはり自分は瞬に甘いのかもしれないと自嘲しながら、氷河は瞬に尋ねた。 あえて、その手をのばさず、瞬には触れずに。 「え?」 「俺の我儘をきいて、俺とこういう仲になったことを」 「氷河、急に なに言いだしたの。そ……そんなことあるはずないでしょう」 「なら、なぜ、おまえはいつも そんな悲しそうな顔をするんだ」 「悲しそう? 僕が?」 「ああ。今も、おまえはとても悲しそうだ。俺に出会わなければよかったと思っているように、俺には見える」 「そんなことは……ないよ」 答えにためらいの響きがある。 瞬は、嘘をつくのが本当にへただった。 瞬は そう思ったことがあるのだ。 たった今もそう思っているのかもしれない――おそらく思っている。 絶望的な気分になって、氷河は目を閉じた。 言うべき言葉が見付からない。 いっそ瞬が“出会わなければよかった”恋人のベッドから今すぐ逃げ出していってくれれば諦めもつくのに、瞬はそれはしないのだ。 氷河に触れられることのないところにまで身体を引くことはしても、瞬は決して氷河のベッドから逃げ出すことはしなかった。 「俺にはおまえがわからない」 もしそれが“氷河”に出会ったことを後悔している瞬の義理―― 一度は彼を受け入れた事実に義理を感じてのことなのだとしたら、それは氷河にはひどくつらいことだった。 瞬にそんな無理をさせていること、そんな瞬に『俺が嫌いなら無理に側にいることはない』と言ってやれないこと、何もかもがつらい。 瞬に『好きだ』と告げた時には――告げる前から――氷河は、自分に対する瞬の好意を確信していた。 あの確信は ただの錯覚、ただのうぬぼれだったのだと思うと、今となってはどうすることもできない後悔に襲われる。 瞬に好きだと告げ、自分を瞬から離れられない男にしてしまったのは、他ならぬ氷河自身だった。 瞬から離れることはできないから、瞬を解放してやることもできない。 命をかけた戦いを共にしてきた、言ってみれば“ただの仲間”に戻ることは可能かと自身に問えば、氷河の心は氷河に『それは無理だ』と即答してきた。 たとえ瞬のために この関係を形ばかり解消してやったとしても、自分の目と心はいつまでも瞬を追い続けるだろうことが、氷河にはわかる。 そんな男の目と心は瞬を苦しめ、結局瞬が“出会わなければよかった”男から解放される時は永遠にやってこないのだ。 そんな未練な男に 今できることは、せいぜい、義理で付き合っている恋人との間に距離を置こうとする瞬の身体を無理に自分の胸に抱き寄せようとしないことくらいのもので、瞬のためとはいえ、そうすることは――ただ動かずにいるだけのことなのに――氷河には、聖衣を手に入れるために耐えてきたどんな修行にも勝るほどの苦行だった。 そんな氷河の肩に、瞬の指が遠慮がちに触れてくる。 氷河が薄く目を開けると、ベッドの端に逃げていたはずの瞬が、いつのまにか氷河の傍らに戻ってきていた。 その瞳が切なげに氷河を見詰めている。 「僕は、氷河に出会わなければよかったと思う心の何倍も強い心で、氷河に出会えてよかったと思ってる。ほんとだよ。僕はただ……ただ、悲しいだけなの」 「悲しい?」 いったい瞬は何が悲しいというのか。 そう訝る氷河の胸に、瞬の指がおりてくる。 瞬は、その頬と額も 氷河の胸に押しつけてきた。 瞬の瞼が伏せられるのを、氷河は、文字通り肌で感じることになったのである。 この人が自分を嫌っているとは、氷河には思えなかった。 瞬の所作は遠慮がちではあったが優しく、その肌は決して冷えておらず温かく、その眼差しは、確かに今瞬が触れている男に恋をしている。 ただ、その唇だけが悲しげだった。 悲しげな瞬の唇が、氷河にとっては思いがけない言葉を紡ぎ始める。 「人が幸せになるのって、なんて簡単なことだろうって思うと、悲しくなるの」 「なに?」 「僕は、氷河を見ていると幸せな気持ちになる。氷河と一緒にいられることが嬉しくて、胸の奥があったかくなっていく。氷河と、その……こういうことをすると、もうこのまま死んでもいいって思えるくらい、幸せな気持ちになるんだ」 「それは俺もだが……そうなることの何がおまえの気に入らないんだ」 「気に入らないんじゃなくて、悲しいの。僕はこんなに幸せなのに、そうじゃない人が、この世界にはたくさんいるんだってことが」 「……」 氷河は、ぼんやりと話が見えてきた――ような気がしたのである。 話が見え始めてきた今になって、氷河は改めて、ある事実を思い出すことになった。 瞬を“ただの仲間”でないものにすることができたことに浮かれ、その喜びに酔って、すっかり失念していたが、瞬は“氷河”という男の恋人であると同時にアテナの聖闘士でもあるのだという事実を。 それも、この地上の平和と安寧を守るためになら 我が身を犠牲にすることも厭わないアンドロメダ座の聖闘士なのである、瞬は。厄介なことに。 瞬の唇が語る言葉は、氷河が察した通り、“氷河”の恋人であると同時にアンドロメダ座の聖闘士でもある者の言葉だった。 「僕はアテナの聖闘士で、少しでも この地上の平和や、そこに生きている人たちの幸福を守ることに貢献したいと思ってる。そうなればいいと願ってるんだ。なのに、その願いは叶えられず、僕だけがこんなに幸せでいる。僕だけが幸せで――」 アンドロメダ座の聖闘士である瞬は、その事実が悲しい――悲しくてならないらしい。 瞬は、『出会わなければよかった』と思っている男の寝台に、義理を感じて無理に留まっていたのではない。 せめてそこにいることだけは許されたいと願い、身体を小さく丸め、心を萎縮させて、瞬はその場所にしがみついていたのだ。 瞬の涙が、氷河の胸を濡らす。 それは、涙そのものも恋をしているように熱い滴りだった。 だが、 「つまり、おまえは、自分が幸福でいることに罪悪感を覚えている――のか」 「そう……なのかもしれない」 「……」 瞬がその恋人を嫌ってはいないという事実に安堵すべきか、恋をしてもアンドロメダ座の聖闘士の宿命に縛られている瞬の不幸を嘆くべきか――。 安堵の思いの方が強くて しかるべきだと思うのに、瞬の涙は、氷河を安堵に浸らせておかないだけの強い力を持っていた。 「ごめんなさい。ばかなこと言って。忘れて」 「その罪悪感を感じたくないのなら、俺との仲を解消するという方法があるぞ」 そうなることを期待したわけではない。 氷河が瞬にそんなことを言ったのは――言うことができたのは――今の瞬にはそうすることはできないということを確かめるため。あるいは、瞬にはそうすることはできないのだということを確信できていたからだった。 「いやっ!」 氷河が期待した通り、瞬の鋭い声と細い腕が、氷河の腕に強く絡みついてくる。 「それだけはいや。そんなこと言わないで」 長い時を過ごすうちに古い石造りの壁に一体化し、そこに存在することが許されなくなったら もはや枯れて死んでしまうしかないツタの蔓のように強く、瞬は氷河にしがみついてきた。 その腕の力を感じながら、人の訪れの絶えた古ぼけた教会が必ずしも寂しく悲しいものだとは限らないのだろうと、氷河は思うともなく思ったのである。 彼がそこに立っていなければ枯れて死んでしまう命が彼と共にあったなら、彼は何があっても自分は崩れ朽ちてしまうわけにはいかないと思うことができるだろう。 そう思えることが幸福でなくて、いったい何だというのだ。 「それだけはいやだと思う自分の心を浅ましいと思う。人のこと気遣ってみせて、自分の無力を嘆きもして、なのに、自分の幸せだけは失いたくないなんて、僕はなんて自分勝手で卑劣な人間なんだろうって思う。でも、それだけはいや。そんなことになったら、僕はきっと死んでしまう……!」 「瞬……」 瞬のあまりに必死な様子に、氷河は――氷河こそが罪悪感を覚えることになったのである。 これほど瞬の心が必死でいたことに、なぜ自分はこれまで気付かずにいたのか。 瞬が自分を好きでいてくれる その100倍も、自分は瞬を好きでいるとうぬぼれていたのに、それは、それこそ ただのうぬぼれだったのかもしれない――と。 「僕だけが幸せでいるなんて、本当にひどいことだと思う。でも、僕は、氷河の側にいられる権利を失いたくない。氷河と一緒にいられることの幸せを知らなかった頃には戻りたくない――」 思いの強さが瞬の100倍でも100分の1でも――瞬と共にいることの幸せを知らなかった頃に戻れないのは、氷河も同じだった。 氷河は、涙に暮れる瞬の身体を強く――心置きなく強く――抱きしめたのである。 「おまえが悲しんでいると俺も悲しい。おまえが苦しんでいると、俺も苦しい。おまえが不幸でいると、俺も不幸になる。それは忘れるな」 『おまえに惚れている男を幸福にするために、おまえもおまえの幸福に耐えてくれ』と瞬に言ってしまうことは、アテナの聖闘士には許されないことだろうか。 我慢しきれずに言ってしまいそうになる その言葉を、氷河は、瞬のために喉の奥に押しやったのである。 「うん……」 氷河に頷く瞬の声は小さく頼りなく弱々しい。 恋など知らず、ただアテナの聖闘士として生きていられれば、瞬はこんな弱々しい声を洩らすこともなく生きていられただろう。 氷河は、瞬をこんなふうに変えてしまった自分の恋を後悔した。 だが、この思いを知らなかった頃には戻れない。 戻れないからには――戻ることはできないのだから――氷河と瞬は先に進むしかなかった。 |