「幸せでいることの罪悪感ねー……」
まさか本当に下半身の力で聞きだしたのかと尋ねることはできなかったが、翌日にはちゃんと瞬の異変の原因を探りだしてくる氷河に、星矢は疑いの念を抱かずにはいられなかった。
氷河にそうすることを命じたのは他ならぬ星矢だったのだが、実際にそれを実行されると腹が立つのは、氷河がその力を駆使した(かもしれない)相手が“地上で最も清らか”を枕詞にしている瞬だからなのかもしれなかった。

「瞬らしいと言えば、これほど瞬らしい悩みもないが……」
複雑な顔をしている星矢の横で、紫龍が感嘆したように低い呻き声を洩らす。
それは実に瞬らしい、瞬でなければ悩めない悩みである。
アンドロメダ座の聖闘士ならぬ身の紫龍には、それこそ想定外の悩み事だった。
本音を言えば、紫龍は、『瞬は性交過多の氷河の身を案じているに違いない』程度のことしか考えていなかったのだ。

星矢も、それは同じだったらしい。
深刻な表情で打ち沈んでいる氷河を、星矢は空々しい笑顔で慰めてみせた。
「まあ、なんだ。罪悪感を感じるほど、おまえとのナニがいいってことだろ。瞬に付き合って、おまえまで落ち込む必要はないぜ」
「落ち込んではいない。ただ、俺にはどうしてやることもできないのが腹立たしいだけだ。瞬の罪悪感を消し去るためだったとしても、俺には 瞬との関係を解消することはできないし」
「そりゃそうだ」
星矢が、至極尤もな氷河の言葉に浅く頷く。

「幸せでいることに罪悪感を覚えるから別れるなんて馬鹿げてるし、別れたところで、おまえの部屋と瞬の部屋って隣り同士じゃん」
同じ家の内で、好きで好きでたまらない相手が隣室にいる。
“別れている”状態に耐えられなくなって隣室のドアを開けてしまったら、別れたはずの恋人同士が元の鞘に収まり、それだけならまだしも以前より一層離れ難い状態になるのは火を見るより明らか。
この場合、『氷河と瞬が別れる』というのは、最も非現実的な解決方法――机上の空論に等しい対応策だった。

「しかし、さすがに瞬の感覚は普通とは違うな。伊達にアンドロメダ座の聖闘士をしているわけではないということか。愛他主義の極みというか、犠牲的精神が身についているというか、この個人主義の時代に時代錯誤が過ぎるというか――」
紫龍が、改めて感心したように頷き、その腕を組む。
それは『義のためになら命も捨てる』を信条にしている紫龍が偉そうに評していいことではないだろうと、氷河と星矢は内心では思っていた。
が、紫龍の感心のしどころは、星矢たちが引っかかったところとは少しばかり ずれたところにあったらしい。

「普通の人間は、本当はさほど幸せでなくても、幸せでいる振りをするものだぞ。人に みじめな人間だと思われたくないという見栄が働くかららしいが。瞬の“幸せ”は、そういう輩の“幸せ”とは一線を画している。――というか、真逆だな」
「そんな見栄 張る奴がいんの?」
星矢が不思議そうな顔をする。
実際には幸せでないのに幸せな振りをして何が楽しいのか。
それはむしろ自らの不幸を証明するために努めているようなものではないか――と星矢は思ったのだが、星矢には不思議に感じられてならないことに、紫龍はあっさり首肯した。

「逆のタイプの人間もいる。大して不幸でもないのに不幸な振りをするタイプだな。不幸不運な振りをすることで、他人の同情を買おうとしたり、人の敵愾心や嫉妬を免れようとする奴等だ。大抵の人間は、そのどちらかのタイプに大別されるだろう。あるいは、両方のスタンスを使い分ける人間の方が多いのか……」
「面倒くせー」
人間の大多数が実践している その行為を、『面倒くせー』の一言で切って捨てる星矢に、紫龍は苦笑することになったのである。
だが、それは アテナの聖闘士になら誰にでも共通した感覚だったろう。
なりふりを構っていられないほど必死に戦い生きている人間には、そんな面倒なことをしている暇も余裕もない。

「まあ、どちらのタイプでも内実は大して変わりはなくて、彼等は誰もが、ほどほどに幸福で、ほどほどに不幸なんだが――。多くの人間は、自分が幸福か不幸かということより、自分が人に幸福な人間と思われているのか不幸な人間と思われているのかということの方を重要視するようにできているんだ」
「そんなの意味ねーじゃん」
星矢には、そういう人間たちの考えが全く理解できなかった。
そして、星矢は、そういう不可解な人間たちのことは(今は)どうでもよかった。
星矢には、そんな見栄っぱりな人間たちの生態解明などより、たった今 本当の幸せに苦しんでいる仲間を楽にしてやることの方が、より重要かつ切実な問題だったのである。
その解決策を、全く思いつかないことの方が、はるかに大問題だった。

「罪悪感を覚えるくらい幸せ、かあ……。いいことなんだろうけどなー……」
星矢がぼやいた先で、氷河は、『一見』がつかない深刻な憂い顔をしている。
瞬ひとりだけならまだしも、氷河までが 幸せでいることの罪悪感などに囚われてしまっては、事態の収拾が更に更に難しくなる。
星矢はとりあえず氷河を慰め励ましておくことにした。
「でも、ほんと、よかったじゃん。瞬の落ち込みが おまえの下半身の力不足のせいじゃなくて。瞬が幸せすぎて悩まずにいられなくなる程度には、おまえの下半身には力があるんだ」
「そんなことがわかっても、事態の解決にはならん」
「ご尤も」
星矢が肩をすくめ、僅かに唇の端を歪める。
問題が下半身ではなく上半身の方にあるという事実がわかったのは収穫だが、それは事態の解決に医者の力は役立たないという事実が判明した程度の収穫に過ぎないのだ。

「おまえも面倒な奴に惚れたなー。いっそ ほんとに離婚届けにハンコ押して、瞬とのコイビト関係を解消しちまったらどうだ? んで、おまえか瞬のどっちかが城戸邸を出る。そうすれば面倒なこともなくなるぜ」
気軽に言ってくれる星矢に、氷河は眉を吊り上げることになった。
「それはできん! 俺は瞬を――!」
星矢を怒鳴りつけようとして、直前で思いとどまる。
星矢の軽口は、白鳥座の聖闘士にはそんなことはできないということを承知しているからこそのものなのだ。
だいたい、ここで激して星矢を怒鳴りつけたところで、それこそ、事態が解決を見るわけではない。

「それはできない。俺は瞬を好きで、瞬なしではいられない。やっと俺のものにしたんだ。瞬が嫌だと言っても、俺は瞬を離さない」
「んなこた わかってるよ。冗談だってば」
問題解決の糸口さえ探り当てられずにいる現状では、瞬の無力な仲間たちにできることは 冗談を言って場の空気をなごませることくらいのもの。
そう考えた上でのジョークだったのだ、星矢のそれは。
残念ながら、その場の空気は全くなごんでくれなかったが。
氷河の『一見』がつかない憂い顔は憂い顔のままだったのだが。

「好き合ってるコイビト同士なんて、普通は、お互いだけを見て、恋に酔って、幸せに酔って、他人のことなんか気にしなくなるもんだろ。世界の方が二人のためにあって、二人の間に地上の平和なんてものが割って入ってくることなんて ありえない。惚れた相手がアテナの聖闘士だったのが、おまえの不運だったな」
星矢は、結局 そうぼやいて、氷河に同情の意を示すことしかできなかった。
星矢には、この事態を打開する有効な手立てがあるとは思えなかったのだ。

瞬は『不幸がほしい』と言っているようなもの。
だが、それは無理な話なのである。
人々に希望を与え、彼等の幸福を守るために戦うのがアテナの聖闘士。
結果的にそれが誰かを不幸にすることがあっても、意図して人を不幸にする術など、瞬の仲間たちは知らなかった。
ゆえに 瞬にできることも、我が身に降りかかってきた幸福に耐えること以外、何もない。
その忍耐がどれほどつらい苦行でも、それは幸せを手にしてしまった人間に課せられた義務なのだと、星矢は――おそらくは紫龍も――思っていた。






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